女王物質
桜が開花するほど暖かな日。黄砂で霞む山を眺めながら、コンビニまで歩いて行った。
暖かさに誘われ女王も目を覚ましたようだ、スズメバチの。
彼女は案内するかのように、私の前をゆっくり飛び、しばらく一緒に進む。彼女は生命力に満ちている。何だか頼もしい。女王に付き従うハチはこんな気分なのだろうか。それとも彼女のフェロモンが私に作用しているのか。彼女のようなヒトが存在するなら安心してかしずくだろう。女王を夢想し、ウットリしていると、女王バチを見失ってしまった。私はコンビニへ入っていった。
「今までお世話になりました!」彼女は朗らかに私に挨拶した。四月から管理者として新たな職場に異動するのだ。
「アァ、お元気で」声が上ずる。彼女はにこやかに立ち去った。好意を寄せられて嫌な気持ちになる人はいない。特に女性は。私の彼女に対する好意など、出会った当初から丸わかりだったろう。異性に対し、未だ思春期の少年のような態度しか取れない。
いつも年上の女性と仲良くなるのはそのせいだろう。あくまで少年としてだが。とっくに三十を過ぎてこんなことを言っているようでは男として役には立つまい。彼女は私より少し歳上である。が、数年前に出会った頃より、若返ったようにさえ見える。それは客観ではなく主観だ。主観が働くのは彼女のフェロモンが作用しているのだ。
スーパーの隣にある、コインランドリーの乾燥機に洗濯物を放り込んだ。400円で32分。
スーパーで買い物をして、コインランドリーの隣にあるドラッグストアに行った。
医薬品売り場に直行する、と、行く手を二人組が塞いでいる。仕方なく遠回りしようとして足が止まった。二人組はカップルであり、何か囁きあい、体をクネクネさせ気分が浮ついているようだった。ピンときた。きっとコンドームを買いに来たのだ。よし、ここは一つ証拠を押さえてやろう。
カップルの跡をつける。彼らは、シャンプー、風邪薬、食器用洗剤、トイレットペーパー、を買い物かごに放り込んでいった。同棲しているらしい。体をくっつけあっているせいか中々買い物が進まない。それらではないはずだ、いま必要なのは。誰かを警戒しているのか、何色にするか決まっていないのか、早く見せてくれ、コンドームを手にするところを。
カップルが衛生品売り場を訪れる。いよいよだ!彼らが通路を折れる、私も折れようとしたところで視線を感じた。つけていたのは私だけではなかった、すぐ後ろに、人影を感じた。私は通路をそのまま直進し、人影が通路を折れるのを盗み見た。若い女の店員である。彼女は仕事に専念すべきだろう。気持ちは分からなくもないが。
毒気を抜かれた私は、医薬品売り場で湿布をカゴに入れ、レジへ向かった。先月ギックリ腰になったばかりだったのだ。
乾燥機に放り込んだ洗濯物を取り込みにいった。乾燥機はまだ回っている。残り5分。
「へー!えらいね!」よくコインランドリーを利用するのを話すと、四月から管理者になる彼女は驚いていた。あと手製の弁当を持参しているのにも。「独り者は何でもしなくちゃいけないですよ」。そう言うと彼女は目を輝かせたものだ。
イスに腰かけ5分すぎるのを待つ。雑誌置き場に、子供用の昆虫図鑑が置いてあった。手に取ってペラペラ捲ってみる。「スズメバチは大きくて強い!」オオスズメバチの鬼のような形相ととももに説明が加えられていた。働きバチ達は女王バチをみてどう思うだろうか。「何という大きさだろう!」より「何という美しさだろう!」かもしれない。とはいえ、スズメバチの顔はみな同じにみえる。スズメバチからしても、ヒトなどみな同じ顔だろう。
ハチにとって真に畏怖すべきはフェロモンである。フェロモンがその個体を決定づける。私は四月から管理者になる彼女の、どこに惹かれたのだろう。実を言えば、彼女の顔立ちは整っているとはいえない。愛嬌はあるが。恐らく彼女が発散するフェロモンに惹かれたのだ。「見た目じゃないです、あなたのフェロモンが好きになったんです」彼女に告白してみようか。見た目よりも中身を評価した方が女性は喜ぶ。「フェロモン」などと口にしたら、変な顔をされるだけだろうな。
「あら!またよろしくね!」仮に、彼女の職場に転勤したら、彼女はにこやかに受け入れてくれるに違いない。管理者として忙殺される彼女を支えるのだ。芽生える愛。幸福な日々にウットリする。
ピーー!乾燥が終わった。ハッと夢想から覚め、辺りを見回す。私しかいない。またしても彼女を見失っていた。