皆さん手巾(はんけち)を握りしめて
「カヘル侯」
しばらく歩いてから、鼻の詰まったような低い声でファイーが言った。
「はい」
「……灯りをもう一度、つけますか。どうしてなのか、真っ暗闇の中にいるという感じがしないのですが」
それにはカヘルも気づいていた。ファイーの従兄と遭遇した場所ほどではないにせよ、微妙に通廊内は明るくて、何となくの視界がある。足元が危ないという気もしなかったから、カヘルはこう答えた。
「私も必要ないと思います。……それにずっと先に、出口らしきものも見える」
「……ああ。本当ですね」
来た時には全く見えなかった出入り口の光が、点のように小さく……しかし力強く二人を導いている。
「良かった。外に出られます」
冷々淡々と言ったカヘルの言葉には、だいぶ安堵がまじった。
「カヘル侯に、またしても救われてしまいました」
ファイーの呟きにも、安堵が入っていた。それを聞いて、カヘルはためらいつつも問うことにする。
「ザイーヴさんは従兄のモーラン・ナ・カオーヴ若侯を、心から好く思われていたのでしょう?」
「ええ、そうです。何と言っても、兄だったので」
カヘルが長いあいだ聞けず、冷えひえなる胸のうちに抱き続けていたその問いに、ファイーはごくあっさりと答えた。
「わたしは一人っ子でしたから、小さい頃からきょうだいのいる子がうらやましくて仕方がありませんでした。だからモーランは、わたしの兄役を引き受けてくれたのです」
通常よりややへこんだ様子ではあったが、それでも低くびしびしした調子でファイーは語った。
現在の姿からは想像もできないが、その昔ファイー少女は優柔不断にとらわれていたと言う。論理的にものごとをとらえ、深く考え、考え過ぎて結局どうしたら良いのかわからなくなってばかりだったらしい。
そういう時にマグ・イーレの従兄にたよりを書くと、即に返事が来た。ファイーの心が選びたがっている方向をちゃんと見抜いて、とりあえずやってみなよ、と応援がつく。
「突剣を始めること、騎士修錬校に入ること、文官として市庁舎に就職する時も、そうやって後押しされました。地勢課に入ってから、ようやくわかったのです……」
そこで一瞬、ふわりとファイーは微笑んだようだった。
「わたしは結局、自分にとって最善の選択をしてこれたんじゃないか、と。モーランはああしろこうしろとは言わなくて、ただわたしが選択することを支えてくれた。それでどうにか自信がついて、ファイー侯と名乗ってやってこれました」
カヘルは息もつめて、聞いている。ようやく相槌をうてた。
「そう、でしたか」
「先ほどだってそうです。何だかんだで、わたしが天命を全うしなくてはいけないこと、大事にしているものがたくさんあることを思い知らせてくれました。巨石記念物の遺構内で怪異に遭遇したことで、うっかり頭に血を上らせてしまって……。道を踏み外すところでしたよ。危なかった」
ふふふ、と低く笑うファイーの優しい表情が、はっきりカヘルに見えた。
出口らしき光が、あと数十歩ほどに迫っているらしい。
「ザイーヴさん」
立ち止まり顔を見合わせ、冷えひえなる気合を全身にみなぎらせた一瞬ののち。
それをかなぐり捨てて、カヘルはファイーの手を握ったまま、その場に片膝をついた。
「……先ほど言ったのは、私の本心です。私はあなたと、ともに在りたいと思う」
数か月間を経て練り上げてきた、必勝の求婚文句をカヘルはとうに忘れ去っていた。
求婚→成婚→跡継ぎ誕生でカヘル家安泰、ついでにデリアド国家安泰という壮大な計画も、同様に忘却のかなたである。
「私、不肖キリアン・ナ・カヘルとおつき合いいただけませんか、ザイーヴ・ニ・ファイー侯。 ……結婚を前提に」
いや最後、ちょっとだけ忘却をまぬがれた部分はあったらしい。これを強調しておかなければ、列石群の二の舞だ!
沈黙が降りる。カヘルが見上げるファイーの顔は、笑っていなかった……。双眸に困惑が満ちている。
「なぜに、本官に」
低い声が、こわばって聞いてくる。握るその手も、何だか強張っている。
「あなたが好いからです。ザイーヴさんといることが、私は好いから」
少し前のカヘルだったら、壮大なる求婚理由を長々くだくだと並べたてて、論理突破しようとしたことだろう。しかし今、デリアド副騎士団長を彼自身の自然が動かしていた。
自然に従って発されたカヘルの真実に、ファイーの双眸が変化する。
ぎーんッ!
あの、青く深い叡智圧が灯った。
女性文官はカヘルをまっすぐ見つめたまま、すちゃっと自分も片膝をついた。
「そういうことなら。わたしからも、今後よろしくお頼み申し上げます。キリアン・ナ・カヘル侯」
ぎぎーんと視線の冷却砲を放ちながらも、カヘルは内心で仰天していた。
騎士らしく正面ずどんと片膝をついてお申し込みをしたつもりが、逆にすらりと片膝をつかれてしまった!?
――はッ、しかし向こうも騎士なのだ。何もおかしいことはない、たぶんこれで良いのだ! ザイーヴさんと私は!
納得した時、ファイーの手が改めたようにカヘルの手を握りしめてきた……すんごい握力である、ぎしり!
―― る、こぉおおおお……
痛みとともに、カヘルはあわれなるけものの咆哮じみた声を聞いた気がした。それでカヘルとファイーは、出入り口の方向へと顔を向ける。
「カヘル侯。あの、もじゃついた声は!」
「とりあえず出ることにしましょう。ザイーヴさん」
ずしゃ、しゃしゃしゃッ!
即座に立ち上がると、実に息の合いまくった速足にて、二人の騎士は明るみの方へと歩いてゆく。
がっちりつながれたその手の中で、カヘルはファイーの熱を抱きしめていた。
そして生来が暑がりの女性文官は、副団長の冷やっこさがじつに心地よいな、と思っている。




