黒い波の急襲
「ちょっと良いですか。カヘル侯?」
「ええ」
エノ軍の経理関連責任者パスクアが、カヘルに話しかけてきた。だいぶ慣れた調子である。
「身元不明の、例の遺体の火葬が終わりました。部下が市民墓地の方へ、いま骨と灰を埋めに行っています」
「そうですか」
「結局、誰も引き取りに来る人がいなかったのでこうなりましたが……。これを」
革の上衣かくしから、ごそりと取り出した布包みを手中に開いて、パスクアはカヘルに見せる。
シトロの遺体首元にあった、あの熊笛の上部分だった。
「うちの嫁が、これはガーティンローの細工ものなんじゃないか、って言うんですよ。それで思ったんですが、オーランには向こうの騎士もいるでしょう? ガーティンローの騎士に託したら、身寄りの人にたどりつくんじゃないかと」
カヘルは顔色を変えず、パスクアにうなづいて見せる。
いま焼かれて灰になった男の素性も、裏切者には身寄りのないことも、デリアド副騎士団長は知っていた。しかしそれを全く表に出さない、冷々淡々としたまじめな態度でカヘルは答える。
「仰る通りだと思います。それでは私がお預かりして、本日オーランでガーティンロー関係者の方に渡しましょう」
鎖付のその小さな細工を、カヘルは受け取った。布にくるみ直して外套かくしに入れる。
少々安堵したような様子のエノ軍幹部を見て、カヘルは何気なく問う気になった。
「奥様は、イリーの方ですか」
パスクアは、カヘルよりひと回りも年上だろうか。髪が後退して広くなった額の下、翠の切れなが双眸が一瞬どきりと引きつったようだった。が、すぐに気を取り直して笑う。
「ええ、テルポシエ人なんですよ。いま料理屋で働いてるんですがね、そこの仕事がやたら楽しいらしくって。最近めっぽう元気なんです」
「そうですか。奥様がお元気で、何よりです」
ごく穏便に言いつつ、カヘルはパスクアの妻について特に裏もなかろう、と判断した。
少々おしゃれに目のきく女性ならば、装飾品の由来くらいわかるはず。一般市民で食堂づとめの奥さんが、ガーティンローの七宝細工を知っていても、何もおかしくはない。
「そうだ、カヘル侯。昨夜オーラン港で、何があったんですか?」
「はい?」
カヘルがぎくりとする番である。もちろん外には出ない、内心だけの副団長ではあるが。
「特に、市内のことは何も聞いておりませんが」
ベアルサ関連で何ぞかまをかけてきているのだろうか、と身構える。しかしパスクアは頬に切れ込む山賊ひげをゆがめて、神妙おじさん顔になった。
「いえね。ゆうべ城壁上にいた見張り番が、オーラン港のあたりで大きな火柱が立ったのを見た、と言っていて」
「火事でしょうか?」
しらばっくれ方も冷えひえに鮮やかなり、キリアン・ナ・カヘル!
「うーん……。と言うより、油壷にでも火がついて、一挙にどかんと燃え盛ったようだったと言ってましたね。港なら倉庫が近いだろうから、大きな事故でもあったのかと皆で予想していたんです」
「そうなのですか、全く知りませんでした。事故だとしたら、恐ろしいことです」
「本当に。怪我した人がいないと、いいんですけどね」
実にうまいこと、デリアド副騎士団長は世間話風に流すことに成功した!
――その火柱は私を狙って、仇敵の極悪理術士ベアルサが放ったものです。しかしブラン君たちの大活躍で事なきを得たため、私キリアン・ナ・カヘルは無傷、けがはしておりません。おかげ様です。
「おやっ。あれはあなたのところの、治癒師じゃないですか? 遅れてくると言っていた……」
打ち解けすぎて、つい治癒師と潮野方言的に言ってしまって気づかないパスクアの視線の先。
カヘルがひょいと目をやると、もやし体型の衛生文官、ノスコが墓地を横切ってくるのが見えた。
若き衛生文官は何やら気が急いているらしい、カヘル並みの速足でひょろひょろこっちに向かってくる。
副団長の姿に気がついた時、ノスコは大きく手を振りかけた……その手がびしっと止まった。と言うか、後ろを振り返ったノスコの全身が、びしーりと凍り固まったように見える。
「?」
カヘルとパスクアは、衛生文官の珍妙な動きに小首をかしげる。
その次の瞬間、耳をつんざくような絶叫とともに、ノスコは爆走を始めた!
「ぎぃぃぃぃやぁぁぁぁ――ッッッ」
カヘルとパスクアは同時に目を見開く。
衛生文官を恐慌に陥らせたもの……、墓地の方角からあふれ寄せる黒ずんだ波の正体を見て、直ちに取るべき態度を取る。
「要員、集合ぉぉぉッッ」
パスクアは天幕外側に散る傭兵、テルポシエ巡回騎士らに向かって怒鳴る。
カヘルは黄土色外套を翻して、天幕に跳び込んだ。
「敵襲につき、全員戦闘準備ッッ」
冷えひえなるカヘルの咆哮に、遺族たちの顔色が変わる。
じゃき、ばさ、がたたッ!!!
哀しみ悼みを振り落として、たちまち戦士の顔つきに戻った老騎士たちが立ち上がった。




