走れ! 衛生文官ノスコ(下)
「それが問題なのです、文官様。お二人はすでに、亡くなられているということでしたね?」
「ええ」
薬種商は背後の棚から小さな木箱を取って、長台の上、困惑するノスコの手前にかたりと置いた。
「私どもの店では、こういう風にどぎつい緑色を付けておりますけれども。説明なしに出されれば、蘭油と知らずに服用してしまう人はいるでしょう」
木箱の中には綿が詰められ、その中心に濃い緑色の丸薬が、ほんのひとつまみほど鎮座していた。
その横、長台上に置かれたシトロの白い処方薬・≪妖精の手袋≫丸薬と……色しか、違わない。
「旦那様は処方薬を病身の奥様に取りに来させるような、多忙の方だったのですから。動悸のした時にはこれをいっきに飲んで下さいね、と奥様に言われて持たされれば、何の躊躇もなく飲み込んでしまうやもしれません」
ノスコは二種類の薬を見比べて、ごくりと息を飲んだ。
「だから、≪妖精の手袋≫は手つかずのままに残されて……?」
「仰る通りです、文官様。例えば、携帯用の容器に詰めるところまでも、奥様にやらせるような旦那様であれば。本人は絶対に、そうとはわからないで飲むでしょう」
溜息をついて、店主はごそごそと蘭油の木箱をしまった。いまだ茫然としているノスコに向けて、ぼやく。
「やり切れませんな。必死に作った薬を、毒として心中に使われてしまうのは」
「は? あの、……しんじゅう?」
ノスコは目をばちばちさせた。シトロ侯の妻と言うのは、一年くらい前に病死したと、ブランかカヘルが言っていなかったか。
「ええ。ほら、蘭油の……≪蘭毒≫の服毒死なら、心の臓の発作にしか見えないでしょう? そういう風にご自身で、自死を病死と見せかけることもできるのですよ。この奥様は旦那様に、三粒以上の蘭油を≪妖精の手袋≫だとして持たせ、自分は残り四粒を飲んで、確実に病死されたのではないでしょうかね」
やたら確信をもって言い切る店主を前に、ノスコはまたしても唖然としかけ……その瞬間、シトロの遺体の異変を思い出した。つるぺか健康的だった足裏……ではなくって、少なすぎる死臭。
「……死後数時間で全身に浸透した蘭毒が、体内の微生物をも滅殺してしまうから。蘭毒服用死の遺体は通常よりもずっと傷むのが遅い、ということでしたよね」
「さようです。文官様」
ノスコは身震いをした。店主に礼を述べて店を出る。
後ろ手に扉を閉めるやいなや、駆け出す。
「何て……なんということだ! もも色、みかーんッッ」
どよんと曇り気味の灰白の空の下、石だたみを蹴って外套の裾をひらめかし、ものすごい勢いで衛生文官は爆走した。ゆったりのんびり、朝の小路を上品にゆきかうオーラン市民たちをよけながら、駐屯基地につながるオーラン東市門を目指す。人々は目を丸くして、走り去る黄土色の騎士を見やっている。
途中かもめの鳴き声を聞いたが、ノスコは港のぶどう巻きのことすら、すっかり忘れていた。
……ちなみに≪本家ぶどう巻き≫のおじさんが上品な屋台を出すのは昼過ぎだから、どっちみちノスコはこの時、オーラン港の名物を賞味できない運命だったのである。




