シトロの汚屋敷
「実は当方としましても、シトロ様のゆくえを探しておりまして……!!」
シトロ夫妻は約八年の間、この家を借りて住んでいた。前に貸していたガーティンロー騎士から紹介されて入居となり、当初は何の問題もなかったと、大家の息子であるその若い男性はカヘル達に語る。
しかしひと月前、突然に一方的な退去の知らせが入ったのだという。
「確かにお家賃は滞りなく、届けられていたのですが……。入ってみましたら上から下まで荒れ放題、汚れほうだいで家を間違えたのかと思ったほどです。オーランは海に近うございますし、ガーティンローと比べてだいぶ湿気も多いですから、お手入れに戸惑われたのか、とはお察ししますよ。けれどいくら何でも、ここまでだめにされてしまっては。もう損害分をいただきませんと」
実に上品に不満を述べる男性に、ローディア後方からカヘルは低く問うてみた。
「使用人の方は、置いていなかったのでしょうか?」
「ええ、ご近所のお話によれば、一年ほど前まではいたようです。けれど奥さまの姿が見えなくなってからは、女中や執事も来なくなったと言うことでした」
――シトロ侯夫人も、いなくなったと……?
大家の息子は、駐屯基地のガーティンロー騎士隊、さらには本国の騎士団にも問い合わせの便りを書いた。しかしどちらからも、シトロは退役済みとしか教えてもらえない。
「そうして今ちょうど、ひと月を過ぎたところですが……。このまま何の音沙汰もなしとなれば、事情を全部本国の騎士団にお伝えして、損害賠償請求の裁判に持ち込むしかございません」
はぁー、と憂鬱そうに大家の息子は溜息をついた。
「遠いところからいらした皆さまに、こんなことを言うのも本当に気が重いのですが。この先シトロ様に会われる機会がありましたら、ぜひ私どもの窮状をお伝えくださいまし」
「え、ええ。それはもう」
「あの、ご主人。シトロ侯は、何か行き先の手がかりになりそうなものを、残して行かなかったのですか?」
プローメルの横から穏やかに問うファイーに、大家の息子は力なく首を振る。
「いいえ、全く。こちら家具付きでお貸ししていたのですが、その調度が逆にそっくり、なくなっていたのです」
それはひどい、実に酷いと、ローディアおよびその後ろのカヘルは胸中で顔をしかめている。
「差し出がましいかとは思いますが、家の中を確認させていただいてもよろしいですか? 我々の視点で、何か発見することがあるやもしれません」
女性文官の申し出に、大家の息子は少々面食らった様子だった。しかしすぐに、同意してうなづく。
「ええ、もちろん構いません。と言うより、ぜひ探してみて下さい。手燭をどうぞ……」
男性は終始ものごし柔らかで、警戒もしていないようだった。そろいの黄土色外套、および騎士作業衣を着たカヘル一同を、デリアドからの出張役人くらいにとらえているのだろう。国は違えど、イリー同盟内の騎士への民衆の信頼は厚かった。もっともこの男性は今、ガーティンロー騎士に対してだけは深い猜疑心を持っているのだろうが。
手燭を持ったプローメルを筆頭に、カヘル・ファイー・ローディアと続いて、四人はまず上階へあがった。
言われてみれば、本当にひどい荒れようである。天井、壁、床、いたるところに黒かびが発生して、もともと白かった板材が台無しになっていた。
異様な臭いもしているが、工事に使われている溶剤のたぐいではない。これ、と特定できない不快なにおいである。
踊り場を上がってすぐの洗い場は、内装が全て取り剥がされていた。石材だけで組まれたがらんどうである。恐らく一番ひどく汚れていたために、業者がいの一番に対応したらしかった。
そこを挟んで、寝室がいくつも並んでいる。天蓋付きの寝台が解体され、ぐるぐると丸められた絨毯や敷物がどこの室にも積まれていた。これだけ見ていると、廃墟にしか見えない。
カヘル一行は手分けして見て回ったが、シトロ夫妻の個人的情報を示すようなものは、一切なかった。
次いで地上階に降りる。剥がした床板が隅に積まれた居間には、かろうじて大きな暖炉が残っていた。しかしここ数年は使った形跡が見られない。灰は取りのかれていて、書類の燃やし残しもない。
長い食卓の足あとだけが床にこすれて残っている食堂、使用人たちのための小室、かびと湿気に浸食されてどこもかしこもうす汚れている。汚れしか残っていない家だった。
「本当に、何もありませんね」
最後に台所を見回しながら、ファイーが低くびしりと言った。
「ここまでがらがらだとは」
――風化してがらがらとなり、一見して何も残っていない遺跡に貴重な何かを見出すザイーヴさんがそう言うからには。この家には実に、全く、何も残っていないのだ。
デリアド副騎士団長が、独自の論理展開で納得しかけた時である。
「ちょっと……ファイー侯。代わりに手燭を持っててください」
「はい?」
プローメルがファイーに灯りを手渡して、流し台の前にしゃがみ込んだ。木製の脚部分の間に手を突っ込んで、床石をさわっている。その様子を見たローディアが、もじゃもじゃと身震いした。
「うえー、汚いですよぉ? プローメル侯ー」
「うん……すごくばっちいんだがな。バンクラーナが言うには、こういうところに……」
がたり。重いもののずれる音がした。




