カヘル侯、ファイー宅にて邂逅
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こっ、こっ……。
とっぷり日が暮れて、冷えの広がる眠月の夕べ。
夕餉の鍋が香る台所、炉と燭と子らの頬があかく輝く食卓にて、数々の筆記布とにらめっこをしていたザイーヴ・ニ・ファイーは顔を上げた。玄関扉を叩く音が、冷やっと彼女の耳に入ってきたから。
「誰か来たよ、母様」
上の子が、書き取りの手を止めて言った。
「そのようだ」
言って、ファイーは立ち上がる。珍しく早く帰宅できた日、女性文官騎士は子どもたちの宿題を応援していたところである。(※決して、みているわけではない。)
下の子がうろちょろとまとわりついて、三人はまとめて廊下に出た。さほど広くもない、デリアド町なかの一軒家である。
「ま~~!! ちょっとー、ザイーヴさーん!」
ほぼ親戚状態の仲良しばあやが扉を開けていたが、取り次ぐまでもない。その横、黄土色外套の騎士の姿が、ファイーの視界に入る。
「あーっっっ!!!」
「カヘル侯ぉぉぉ!」
歓喜の大絶叫とともに兄弟は突進し、どす・どすん! デリアド副騎士団長のお腹付近に強烈な体当たりを……違った、熱烈な抱擁をあたえた!
「何でなんで何で!? 今日も一緒に、ごはん食べてくれるんですかぁーッッ」
「千本のっく、しよーッッ」
小さな兄弟を前に、極度の照れで瞬間凝固してしまったカヘルは、ちらりとファイーの方を見てから視線を下に向けた。
「申し訳ないのですが、今日はお母さまに急ぎの用があって来ました」
「え~……」
「大事な話をして、すぐに帰城します。でも別の日に、また来ます。リリアン君」
「ほんとですか?」
「本当です。日が高いうちに来るので、千本打撃はその時に。……キリアン君」
「はーい」
兄弟は素直に引き下がる。憧れのデリアド副騎士団長と、いっちょ前に騎士礼を交わし、ばあやと共に台所へ向かった。
「ザイーヴさん」
静まり返った廊下で、カヘルはファイーをまっすぐ見た。
ぼかした紺色の毛織室衣。くつろいだ格好のファイーはしかし、緊張のまなざしでぎんとカヘルを見返す。
マグ・イーレから、カヘルは軍馬を速足で飛ばしてきた。はた目にも旅の汚れと疲れがにじんで、非常事態を思わせる様相であろうな、と副団長は思う。しかしデリアド城の騎士団本部へ帰還する前に、何としてでもファイーに伝えなければ、と思ったのだ。
九年前のテルポシエ陽動作戦、マグ・イーレ騎士の遺骨収集について、カヘルはファイーにかいつまんで話す。
地勢課勤務の準文官、一介の市職員であるファイーに、叔母ニアヴと話した政治的背景までは言えない。しかし……。
「そこで亡くなられたという、マグ・イーレ騎士のいとこの方を。探しにゆかれる気持ちがあるなら――」
「どうか同行させてください」
カヘルの提案の終わりをさえぎるようにして、ザイーヴ・ニ・ファイーは低く言った。
大きく見開いたその双眸いっぱいに、カヘルが映っている。
「従兄モーラン・ナ・カオーヴを、わたしは連れ戻したいのです。カヘル侯」
強い圧のかかった視線――普段は叡智に基づいた力のこもるファイーの視線に、今は悲愴が満ちていた。彼女の目の前にいるのは自分なのに、ファイーの青い瞳を占領しているのはカヘルの姿なのに。ザイーヴ・ニ・ファイーは、別の男性を探し求めている……。
会いたくて来たのに、会えて嬉しいはずなのに。カヘルの胸底は、冷えびえと寂しかった。
「わかりました。私の側から人員枠を確保しておきます。日程などの詳細は、追って連絡しましょう」
自分を透かして他の誰かを見ているファイーと、副団長は目を合わせていられなかった。事務的に言いながら、カヘルはうつむきがちに身体の向きを変えかける。玄関扉に手をかけた。
「では」
そのカヘルの右腕に、手が触れた。毛織外套の厚い生地を通して伝わってきたファイーの震えに、カヘルは伏せていた目をはっと上げる。
白くなるほど唇をかたく噛みしめ、面もちをも白くして、ファイーは動揺していた。その唇を無理やりにこじ開けて、囁くようにファイーは言う。
「ありがとうございます、カヘル侯。わたしの従兄の話を、憶えていて下さったとは」
動揺して混乱して、それでも自分を立て直そうとしている。こういうファイーを初めて見た。見せてくれたことが、カヘルは嬉しかった。
一瞬迷ってから思い切る、カヘルは左手をのばす。自分の右腕、肘あたりで震えているファイーのその手を、少し力を込めて上から押さえた。
「大丈夫です。ザイーヴさん」
ファイーの手は冷たい。あんまり冷たくて、カヘルは自分の手の熱が感じられるほどだった。
普段から冷えひえで、体温なんぞ意識してこなかったはずのデリアド副騎士団長が、他者を温めるという珍しい事態である。
ファイーは長く息をためて、吐いた……。顔を伏せている。こぼれそうなものを、彼女は我慢しているのかもしれなかった。
こうして珍しいこと続き。女性文官とデリアド副騎士団長、つかの間の夕べの邂逅が終わる。