操、風邪をひく
「今日は寒いわね」
操が言った。
「そう?ミサオ、こっちは太陽の光で暖かいよ」
ソファーに座っている珠子が、おいでよと手招きをする。
「じゃあ姫の隣に行こうかな」
操は食卓の倚子からゆっくり立ち上がると珠子の横にどさっと座った。
彼女の言う通り、南向きの窓からの強い日射しでこの場所は十二月初旬でもかなり暖かい。
活発な珠子には暑いぐらいかもしれない。
「ミサオ、暖かくなった?」
珠子が顔を覗き込む。
「あれ、顔が赤いよ。お熱あるんじゃない」
珠子は操の寝室に行くと、背伸びをしてチェストの一番上の引き出しから体温計を掴み操のもとに戻った。
「ミサオ、腋に挟んで」
体温は38℃を超えている。
「ミサオ、病院に行こう。私がついていくよ」
「大丈夫よ。感冒薬を飲んで今日は大人しく寝てるから」
操は薬を飲んで、月美に電話した。
──はい。お義母さん、どうしました
「こんにちは。今、話をしても大丈夫?」
──隣にいます。そちらに行きましょうか
「お願いします。あっ、マスク着けて来て」
──お義母さん、風邪ですか?
「なんか、ひいちゃったみたい」
──風邪薬ありますか?
「ええ、今飲んだところ」
──すぐ行きますね。お義母さんは暖かくして寝ていてください
「ありがとう。お願いします」
電話を切ると、操は珠子を呼んでベッドに入った。
「姫、玄関の鍵開けておいて」
「月美さん来るの?」
「ええ。それから姫もマスクして」
「はい」
子ども用マスクを着けた珠子は鍵を開けるため玄関へ向かった。
インターホンが鳴って月美が入ってきた。
「珠子ちゃん」
「月美さん、こんにちは」
「お義母さんは、ベッドで寝ているの?」
「うん」
月美はベッドで横になっている操に声をかけた。
「お義母さん、珠子ちゃんはウチで預かります。お薬と食事のときは私がここに来るので、ゆっくり休んでくださいね」
「ありがとう。世話になりますね。玄関の壁に、ここの鍵を下げてあるから持っていって」
操がかすれた声を出して月美を見た。
月美はタオルで包んだ保冷枕を操の頭の下に差し入れて、鏡台の倚子をベッドサイドに持ってくると、そこに水とスポーツ飲料のペットボトルを乗せたお盆を置いた。
「ちょっとしたことでもいいので電話くださいね」
「月美さん、姫を頼みます」
「はい、お預かりしますね。鍵ももらっていきます」
「ミサオ、ゆっくり休んでね。この子、私の代わり」
珠子がお気に入りのシロクマのぬいぐるみを操の横、普段珠子の枕があるところに置いた。
「ただいま」
孝が学校から帰ってきた。
「あれ、タマコのサンダルがある。タマコいるのか」
そう言いながら奥に行くとノッシーのケージの前で珠子が膝を抱えて座っていた。
「おまえ、どうしたの」
「ミサオが、お熱をすっごく出してるの」
「心配だな」
「うん。月美さんが看にいってくれるの」
「そうか。早く熱が下がるといいな」
「うん。ミサオの熱が下がるまで、泊めてね」
「おう。いいよ」
孝は、おばあちゃんには悪いけど、珠子と一緒にごはんを食べたり話ができるのが嬉しくて彼女に悟られないように、心の中でガッツポーズをした。
珠子と孝が晩ごはんを食べていると柏が帰ってきた。
「タマコ、どうした?」
「おかえりカシワ君。ミサオが熱を出して寝てるの」
「そうか。俺が時々様子を見てくるよ」
「私が看るから大丈夫よ。柏君はお風呂に入ってゆっくりしてて」
月美が柏の食事の用意をしながら言うと、彼は自慢気に孝を見た。
「タカシ、俺の月美はよくできた凄い嫁さんだろ」
「はいはい、ごちそうさま。おれの大事なお母さんでもあるんだけどな。タマコ、ノッシーのところに行こうぜ」
食事を終えた孝は珠子を連れてリクガメのケージの前に座った。活発なノッシーが動き回るのを見ながら珠子が孝に聞いた。
「タカシは幼稚園に行ったの?」
「うん。保育園に通ったよ。昼間、おれが家にいたらお母さん働きに出れないだろう」
「そっかー」
「どうした?」
孝は、何かを考え込む珠子を見つめた。
「あのね、私が毎日ずっとここにいると、ミサオが一人でやりたいことを昼間できなくて、他の時間に作業していたのかも」
珠子が俯く。
「タマコはしっかり者だから一人で留守番だってできるだろう」
「でも、ミサオは私を一人にはしないよ」
「そうか」
「私が昼間いなければ、その時間をミサオの自由に使うことができる。お出かけも昼寝もできるでしょう。体が休まれば具合が悪くならないかも」
「おばあちゃんはタマコといつも一緒にいるから元気でいられるんじゃないのかな」
「そうかなぁ」
「タマコは幼稚園に行きたいの?ここにいる子どもは、おれだけでしょ。元太はまだ生まれたばかりだし、本当は他の友だちとも遊びたいよな」
孝の言ったことを珠子は否定した。
「私は、ここに住んでるおじいちゃんやおばあちゃん、変わった草を育ててるお姉さんや、ちょっと怖い顔をしたおじさんとか、大人とお話するのが楽しいし……それに」
「ん?」
「それに、こうやってタカシと一緒にいられるのが一番嬉しい」
珠子に言われて、孝の顔の筋肉はふにゃっと緩んでしまう。
「いつでも、おれのところに来いよ。タマコが来るのは大歓迎だよ」
「うん」
操の寝室のドアをそっと開けた月美は、薄暗い中で操の様子を窺った。呼吸は落ち着いていて苦しそうではなかった。
「お義母さん」
小声で呼びかけてみる。
ううん、と操が薄目を開ける。
「お義母さん、起こしてゴメンなさい。そろそろ、食事と薬をと思って。部屋を明るくしていいですか?」
「ありがとう、月美さん。いただきます」
月美に手を貸してもらい、操はゆっくり体を起こした。
卵粥とオレンジゼリーをゆっくり食べて薬を飲むと、ゆっくり立ち上がり、いつもより時間をかけてトイレと歯磨きを済ませてベッドに戻った。
「姫はいい子にしてる?」
横になりながら操が聞いた。
「ええ、とっても。でも孝が離さないんです、彼女を」
月美は笑いながら保冷枕を交換した。
「月美さんが傍にいてくれてありがたいわ。私すっかり甘えちゃって」
操が恐縮する。
「頼ってもらえて私も嬉しいです。ゆっくり休んでくださいね。灯り暗くします。おやすみなさい」
月美が帰って一人ベッドに横たわる操は、珠子が枕元に置いてくれたシロクマのぬいぐるみを胸に抱いて、
「姫、おやすみ」
珠子の笑顔を思い浮かべながら瞼を閉じた。