クレーマーとアメ玉
今朝も、厚手のコートにマフラー、毛糸の帽子と手袋をしっかり着けて、珠子は操の部屋の前で立っていた。
「タカシおはよう」
外に出てきた孝に声をかけた。
「おはよう。あったかそうな格好だな」
「うん。寒くないよ」
珠子は得意気に笑う。
「そうだ、お父さんが土曜日に子ども食堂の手伝いに行くんだって。おれ一緒に行くんだけどタマコもくるか?」
「ヒイラギ君とミユキちゃんのところ?」
「そう」
「行く!」
「わかった。お父さんに言っておくよ。風邪ひくなよ」
「うん。タカシ、いってらっしゃい」
「いってきます」
孝が手を小さく振ると珠子は大きく振り返した。
珠子が部屋に戻ろうとしてドアノブに手をかけたとき、
「おはよう」
聞き慣れない声に振り向くと、操より年配の女の人が立っていた。
「おはようございます。何かご用ですか?」
珠子は相手を観察しながら聞く。
「あなた、大家さんの孫なのかしら。大家さんいる?」
「おります。少々お待ちください。ええと、どちら様ですか?」
初対面なのに上から目線な話し方にちょっとイラついた珠子は、わざと丁寧に喋った。
「105の谷村だけど」
苛立った雰囲気を前面に出して女が言う。
珠子が部屋に入り玄関扉を閉めて
「ミサオ」
大きな声で呼んだ。
「姫、どうしたの」
操が慌てて姿を見せた。
「外に105の谷村さんって女の人が来てるんだけど、機嫌が悪いのか話し方が怖くて」
「わかった。姫は寝室にいてくれる」
「うん」
珠子の姿が奥に消えると、操は玄関の扉を開けた。
「おはようございます、谷村さん」
笑顔で挨拶した操に
「いつまで待たせるのよ。ああ寒い」
玄関に入った谷村と名乗る女はぶつぶつと言う。
彼女は105号室の住人、谷村明美だ。普段、操もあまり顔を合わせたり話をしたりすることはないが、たまに声をかけられる時は大体苦情を言われる。
「あがってもいいかしら」
靴を脱ごうとする明美を
「ごめんなさい。散らかってるので、ここで
話を伺いますわ」
操が慌てて制する。
「立ち話をしろってこと?」
「すみませんが、ここで伺います」
嫌な空気が立ち込める。
「それでどのようなお話でしょう」
「あのさ、ここって単身者用のアパートよね」
「ええ、そうです」
「隣の104の沢野さんだけど、本人以外に誰かいるんじゃない?」
「ええ、沢野さんのご家族がいらっしゃってます」
「家族だったら一緒に住んでいいの?」
「住んでいるわけでは無いです。少しの間、お泊まりになってるだけで」
「それって住んでるってことじゃないの」
「ご高齢の沢野さんが体調を崩されているので、看病にいらっしゃってるんです」
「それならそうと隣の私に断りがあってもいいんじゃない」
「ええと、沢野さんの娘さんが両隣の方には挨拶されたと聞いてますが」
機嫌の悪い明美に、操が言うと
「あなたからは何も聞いてないわ。大家からも私に伝えるべきじゃないの」
意地の悪そうな目でこちらを見る。
操は相手に気づかれないように小さくため息をつくと
「そうですね。こちらから谷村さんにお知らせしなかったのは私の手落ちでした。すみませんでした」
と、頭を下げた。
それを見て満足したのか、
「あなたもいい年なんだから、世間の常識を勉強なさい」
と言い残して明美は出ていった。
ふーっと大きなため息をついて操はキッチンで温かいお茶を淹れた。
「姫、こっちにいらっしゃい」
「はーい」
二人は湯呑みを両手で抱え、ゆっくりお茶を飲んだ。
「あの人、沢野さんの隣の人なの?」
珠子が聞くと操が頷く。
「ちょっと偉そうに喋る人だね」
声を潜めて珠子が言うと操が大きく頷く。
「前から顔を合わせる度に、ちょこちょこ細かい苦情を言ってくるの」
操がため息混じりで言うと
「あのおばあちゃん、寂しいのかな」
珠子は、外で声をかけられたときの明美の姿を思い出していた。態度は横柄だったが、目に力が感じられなかったのだ。
「そうかも知れないね」
しばらく考えて、操もそう思うことにした。
そして明るい声で珠子に言った。
「姫、朝ごはんにしようか」
「うん。お腹すいた」
翌朝、いつものように暖かい格好で孝を見送ると珠子は部屋へ戻ろうとした。そのとき、どこかから視線を感じた。周りを見回したが、誰もいない。珠子は首を傾げながら操の部屋へ戻った。
週末が過ぎて月曜日の朝、
「タカシ、おはよう」
いつものように珠子は外で孝を待っていた。
「タマコ、そんな毎日見送ってくれなくていいよ」
「私がそうしたくて見送ってるんだけど。ウザイ?迷惑?」
「そんなことないけど、眠いだろう。どんどん寒くなってくるし、風邪をひいたら大変だからさ」
「そんなこと気にしなくていいから。私は私がしたいことを実行してるだけよ。タカシ、行かないと遅刻しちゃうよ」
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
孝の姿が見えなくなるまで珠子は手を振った。そして、部屋に戻ろうとしたとき、また、誰かの視線を感じた。
珠子は105号室の前に行き扉を見つめた。一つ頷くと、トントンと扉を叩いた。
ガチャっと扉が開き、谷村明美が不機嫌そうに顔を出した。
「おはようございます」
珠子は頑張って笑顔を作る。
「何か用?」
「あのね」
珠子は手袋を取ってコートのポケットに手を突っ込むと
「あの、手を出してもらっていいですか」
と、言ってポケットから取ったものを握って差し出す。
明美が恐る恐る手を出すと、その手のひらに珠子が握っていたものをそっと乗せた。
袋に入った一粒の飴だった。
「のど飴どうぞ。この間ミサオとお話していたとき、声がかすれてたでしょ。これ私のお気に入りの飴です」
明美は黙ったまま手のひらの飴と珠子を交互に見つめた。
「おじゃましました」
珠子がちょこんと頭を下げると
「ありがとう」
明美はほんの少し目尻を下げた。
玄関の扉を開けた珠子に
「姫、長いこと何をしてたの?タカシ君はとっくに出かけたわよね」
操が少しだけ声を荒げて聞いた。もちろん珠子が心配だったからだ。
「うん。心配させてごめんなさい」
素直に謝る珠子を操がそっと抱きしめる。
「やっぱり冷えてる。早くあがって」
防寒の上着と小物を取って、珠子が食卓についた。
操が温かい味噌汁を渡す。熱っと言いながら美味しいそうにお椀を口に傾ける幼い孫を見つめながら操が聞いた。
「姫、誰かに優しさをおすそ分けしてきたの?」
お椀を持ったまま、珠子は微笑んだ。