久しぶりのおにぎり
孝は落ち着かなかった。学校の授業もずっと上の空で、早く帰りたくて放課後は過去一の早さでアパートまで戻った。
「タマコ帰ってきた?」
「孝、ただいま、でしょう」
月美が窘めた。
「ただいま。で、タマコは?」
「帰ってきたわよ」
「会いに行っていいかなあ」
「さっき警察の人たちが来てたから、まだ行かない方がいいわ」
「そうか。犯人の話をしてるのかな。タマコに酷いことをしたのは自分勝手な奴なんだよな」
絶対許さないからな、と孝は両方の拳に力を入れた。
「母さん、少し横になれよ。俺、ここにいるから」
刑事たちが帰った後、源が疲れきった顔をした操を抱えようとすると、彼女がそれを制した。
「大丈夫。ちょっと思い出しちゃっただけ。ごめんよ、あんたの方が参ってるだろうに」
「俺は母さんより若いから大丈夫」
「私との年齢差を強調するんじゃないわよ」
操が子どものように頬を膨らます。源が苦笑いを浮かべながら、操の隣にちょこんと座っていた珠子を抱き上げた。
「とにかく横になろう。珠子も退院したばかりなんだから休まないとダメだよ。母さんと一緒に寝なさい」
操の寝室へ二人を連れてベッドに寝かせると、源はソファーのところに戻り倒れ込むように体を預けた。
あれだけの人を傷つけて、多くの人に恐怖を与え、更に俺の珠子をあんな酷い目にあわせた奴に精神鑑定を受けさせるって、巫山戯るな!そんなもの必要ないだろう!そいつの思い通り死刑にしてやればいい。源は犯人に直接ぶつけられない怒りをどうしたらいいのかわからず胸の中が燻っていた。
夕方、操の部屋に柏が孝を連れてきた。
「兄さん、勝手にあがるよ」
玄関にちらっと顔を出した源に言いながら柏が孝の肩を抱いてソファーに腰を下ろした。
「タマコは大丈夫ですか」
孝が向かい側の源を見る。
「孝君、あの子を心配してくれてありがとう。今眠っているけど、大丈夫だよ」
源も孝の目を見つめる。
「あの、警察の人と話をしたんですよね?」
孝の問いに源が頷く。
「刑事が来たよ。男と女の二人組でね。珠子と母さんと一緒に話をしたんだけどさ…」
「駅のホームで被害に遭った中には重症な人もいるんだろう」
柏が言うと源は頷きながら
「そう。駅の利用客を恐怖に陥れて、何よりも珠子をあんな目に遭わせた奴を精神鑑定するんだってさ。俺、軽く文句を言ったわけ。その後、刑事の一人が母さんに、なんで孫と手を繋いでなかったのかって聞いたんだよ」
怒りを抑えながら言った。
「車の通る道とかじゃないし、目を離してたわけでもないんだろう」
柏の言葉に源が頷いた。顔に怒りの色が見える。
「その時は土砂降りでさ。母さんはベンチに座って、珠子はコンコースの入り口で雨雲の動きを見上げていたんだ。改札の辺りが騒がしくなって、あっという間に珠子が刃物を持った男に腕を掴まれた。珠子は一人で立っていたから狙われたのかもしれないって言うんだぜ。母さんだって近くにいたし、ちゃんと見ていたんだ」
「仮に手を繋いでたって勢いよく強い力で引っ張れば連れていかれちゃうよな。実際、前にホームセンターで珠子がさらわれそうになったじゃん。その時は手を繋いでいたのに連れていかれた」
柏も顔をしかめた。
「珠子が酷い目に遭ったのは、手を繋いでなかった母さんのせいじゃなくて犯行をした奴のせいだろう」
「全くその通りだ」
「刑事に悪気は無かったんだろうけど、なんか珠子の件はこっちで防げたんじゃないかって言われてるみたいでさ、腹が立った。でもさ」
「でも?」
「その時、珠子が言ったんだ。あの時はたくさんの人が雨宿りをしてて、自分以外の子どももあの辺りをうろうろしていて私だけが一人で立っていたわけじゃなかった。たまたま運悪く手を掴まれたの。悪いのは犯人でミサオじゃないよ、ってね」
「あいつ、言うね」
柏がニヤッと笑った。
「刑事も慌てて、あなたのおばあちゃんが悪いなんて言ってないですよ、我々の言葉で気分を害したのなら謝ります。って言った後にさ…」
「うん?」
「あなたを掴んだ犯人の掌が火傷を負っていたんだけど、掴まれたあなたの腕は大丈夫だった?って珠子が聞かれたんだ」
「おやおや。珠子は何て答えたんだ」
「私の腕はなんでもない、って素直に答えてたよ」
「まあ、他に言いようがないよな。私の能力で犯人は火傷を負いましたなんて言えない、言えない」
「刑事も報告をあげなくちゃならないから、雷が関係してるのかなとかごにょごにょ言ってたな。とにかく草臥れた」
源はソファーに倒れ込んだ。
「兄さん、部屋に戻って休みなよ。母さんたちは俺と孝で見てるから」
「ああ、そうさせてもらう」
ゆっくりソファーから体を起こした源は大きく伸びをすると玄関へ向かった。
「孝君、珠子を頼むね。おやすみ」
「はい、任せてください。おやすみなさい」
孝は緊張の面持ちで挨拶をした。
「さて、タカシ」
柏が立ち上がった。
「月美のロシアンおにぎりを持ってくるか」
「うん」
「俺が取ってくるから、おまえはここで待ってて」
「わかった」
柏が部屋を出て少しすると、ラップをかけた大皿を持って戻ってきた。その後にいくつかのタッパーを抱えた月美が立っていた。
「お母さん」
孝がタッパーを受け取ろうとすると、大丈夫よ、と言って月美はキッチンに向かった。
「味噌汁と簡単な炒め物をさっと作るわね」
そう言って調理を始めた。美味しそうな匂いが部屋中に漂う。
先に起きてきたのは珠子だった。
「あれ、タカシ、カシワ君、おはよう。いい匂いがする」
「タマコ、体は大丈夫か?これ着てろ。ちなみに今は夜だよ」
孝は自分の着ていたフリースパーカーを脱いで珠子に羽織らせた。
「ありがとう。そうか、夜だったんだ。タカシ寒くないの?」
「大丈夫。今お母さんが味噌汁を作ってるから、できたら一緒に食べよう」
「月美さん、いるの?」
珠子はキッチンに行き、月美に、こんばんはと挨拶をした。
「珠子ちゃん、こんばんは。もうすぐできるから座ってて」
「ミサオを起こしてくる」
珠子がキッチンを出ると、ソファーで柏と話をしている操と目が合った。テーブルのおにぎりがたくさん乗った大皿を指差して
「姫、これロシアンおにぎりですって。具に一つだけ、はずれがあるんですって」
操が笑顔を見せている。味噌汁の椀と牛薄切りのオイスターソース炒めを乗せたお盆を持って月美がキッチンから出てきた。珠子の傍に行くと耳もとで、いちばん薄っぺらいおにぎりは食べないで、と彼女は小声で言いながら通り過ぎていった。
「いただきます」
ソファーに座った珠子・操・孝の向かい側に柏と月美が腰を下ろし、みんなでおにぎりを手にした。
珠子は月美のアドバイス通り厚みのあるおにぎりをパクッと食べた。海苔の香りとご飯の塩味と脂ののった焼鮭が口の中で踊っている。久しぶりの美味しいごはんだ。しかもみんなでワイワイ食べるのが珠子は嬉しかった。
はずれを口にしたのが柏なのはお約束である。
「うっ」
真っ赤な顔で柏が叫ぶ。
「なんだよーこれ。辛すぎる!」
明太子に刻み唐辛子を混ぜたのよと、月美が笑いながら冷たい缶ビールを渡す。
操が柏を見て大笑いしている。
珠子も笑顔を見せた。