珠子と操 カルチャー教室へ
『ハイツ一ツ谷』の最寄り駅には五階建てのテナントビルが隣接している。飲食店やホビーショップ、ファストファッションの店などが入っているが、最上階のフロアにはスポーツジムとカルチャーセンターがある。
操は珠子を連れて、カルチャーセンターのお試し教室を受けに訪れた。操が大家をしているアパートの入居者、103号室の大田恵がここの受付を担当していて、彼女からどれか好きな教室を体験しに来てくれないかと頼まれたのだ。
「恵さん、来たわよ」
「神波さん、来てくれてありがとうございます。あっ、珠子ちゃんもありがとう」
恵が満面の笑みで迎えてくれた。そして囁くような小声で言った。
「ホント助かった。ノルマってわけじゃないんだけど、無言の重圧っていうか、体験受講者を連れてきてって雰囲気を醸し出すのよ、ここの偉い人が」
「大変だね。でも私、ちょうどこの教室が気になってたからナイスタイミングだわ」
「どれを選択します?」
恵が様々なクラスのメニュー表を広げた。
「絵手紙教室」
操と手を繋いでいる珠子が言った。
「山本秋子先生のクラス…」
「ええ」
「そう……楽しんでね」
恵の笑顔がぎこちなく見えた。
案内された部屋には2メートル×60センチメートル程の天板の長机が十台、それぞれに倚子が間を開けた状態で並んで二脚セットされている。
机の上には、半紙と葉書サイズの和紙、彩色筆と面相筆と筆洗い、梅皿と紅色・黄色・青色の絵の具と墨汁と葉の付いた立派な人参が、受講者の人数分用意されていた。
そろそろ開始時間なので皆席に着き始めた。
操と珠子も並んで座る。体の小さな珠子は座面高いの倚子を用意してもらった。
「皆さん、こんにちは。絵手紙教室にようこそおいでくださいました。私は本日皆さんと絵手紙づくりを一緒に楽しみたいと思っております講師の山本秋子と申します。よろしくお願いします」
講師が挨拶すると、皆、銘々会釈した。
珠子はまばたきもせずに山本先生を見つめた。
「まず筆に慣れる為に線を引く練習から始めましょう。練習には半紙を使います。皆さんの前には皿が二枚置かれていますが花型でない方の小皿に墨汁を適宜入れてください。筆も二本あると思いますが太めの方を使います」
山本先生の説明を聞きながら操は半紙に横線・縦線・渦巻きと筆先を動かした。横を見ると珠子も集中して線引きをしていたが筆圧の加減が4歳には難しい。
「珠子さん頑張ってますね。筆の柄のもっと上を持ってみましょう」
山本先生が実際に持って見せてくれた。
「それでは、実際に絵手紙を書いてみましょう。今回はモチーフに人参を用意しました。葉書のどの辺りに人参を描くか想像してみましょう。文字を書くスペースも考えてください。大まかな構図が決まったら墨で人参の輪郭を描きます」
皆、思い思いのレイアウトで人参の形を描いていく。珠子も真剣に筆を動かした。そんな彼女を一番後の席で凝視している人物がいた。横を山本秋子が通ったので、慌てて目線を珠子から目の前の葉書に移した。
「輪郭が描けたら次に色を着けましょう。今度は花型のこちら、梅皿を使います。この窪みに紅色・黄色・青色の絵の具を入れます。この三色を混ぜていろいろな色を作りましょう。色を混ぜる時、絵の具は少量ずつ混ぜて様子をみてください。これらを混ぜると緑や紫、茶色やセピア色が作れます。淡い色はほんの少しの絵の具に水を多く含ませます。線引きの練習に使った半紙で色を確認して葉書に彩色してください」
先生の指示のもと皆真剣に手元の葉書に集中した。
授業が終わって、操と珠子は受付の大田恵と話をしていた。
「絵手紙体験どうでした?」
「面白かった。絵を描くなんて学生の頃以来だから何十年ぶりだったかな。姫も一生懸命描いてたね」
操の満足そうな顔を見ながら恵は小声で更に聞いた。
「講師の山本さんどんな感じだった?」
「ん?山本先生、とても丁寧に教えてくれましたよ」
「そう…」
「恵さん、山本先生と何かあったの?」
操が聞くと彼女は無言で悲しそうに笑った。
「恵さん、仕事終わったらお茶しない。それまで私たち、この辺で買い物してるから」
「ええ、あと一時間で終わります」
操は一時間半後に最近お気に入りのイタリアンの店で会う約束をして、カルチャーセンターを出た。
恵が仕事を終えて待ち合わせの店を訪れると
「こっちこっち」
操が手を振った。
テーブルにはティラミスとイタリアンプリンが置かれていて珠子が交互に食べている。
着席した恵に
「何を注文します」
「コーヒーを」
操がスタッフに声をかけてコーヒーを二つたのんだ。
「受付業務ってハードなの?」
「受付自体はたいしたことないんだけど、それ以外の雑用がハードなの。授業と授業の間の時間に教室の整頓や後片付けと次の準備だったりで」
「じゃあ、私たちが受けた教室の画材とかも恵さんが準備していたの?」
「そう、終わるとお皿や筆を洗って乾かして」
「教室は幾つもあるから大変だね」
「そうなのよ。講師のほとんどの方が一緒に手伝ってくれるんだけど、あの山本先生はアゴで指図するの。しかもチンタラするなみたいな事言うし」
「授業中の先生はそんな感じに見えなかったけど、前から恵さんに辛くあたっていたの?」
「いいえ、ここ一カ月位かな。前は気さくに話もしてたから、何か気になっちゃって」
恵はため息をつく。
「一月前、心当たりはないの」
操が聞くと
「何も思い当たらない」
恵が答えた。
珠子は先ほどからずっと恵を見つめていた。そして操の手をそっと握った。
「ねえ恵さん、その頃外出中に何かに遭遇しなかったかな」
操が問う。恵はその頃に外で何かあったか腕を組んで暫く考えていた。
「えー、うーん。ああ小さな犬が車にはねられた事があった」
「それで」
「えっ、それで?ええと…苦情を言ったかも、ちょうど横断歩道で、ヤダーこんなところでイヌが死んでる。みたいなことを言ったかも」
「私ね。さっき絵手紙体験が終わって山本先生とちょっとだけ話をしたの。先生のお手本の絵手紙を見せてもらったんだけど、ほとんどが植物の絵だったのね。そんな中で一枚だけ犬の絵があったの。『ずっとずっと大好きだよ』って文字が添えられたものだったんだけど、それが気になって聞いたらね、一カ月位前に交通事故で天に旅立ってしまった子だって言っていたの。散歩中にリードが外れて道路に飛び出してしまったんですって。横断歩道でその子が息絶えていて先生が駆け寄った時ね、そこを通り過ぎた人が心無い言葉を発して去って行ったって…」
「そうか、それ、多分……私です」
恵は俯いたまま言った。
「私、どうしよう」
「できるだけ早く山本先生と話をした方が良いかも知れないわね。彼女の悲しみが少しでも薄まれば良いけど」
「私、これから先生のところへ行ってきます。まだセンターにいるかも知れないので」
「そうね。会って話をしてみて。コーヒーは私のおごり。早く行って」
恵は操に深く頭を垂れると急ぎ足で店を出て行った。
自分たちの部屋に戻った操と珠子は教室で書き上げた絵手紙を見せ合った。
「姫、大胆な人参ね。添えた文字は──またみにいきます・かんなみたまこ──これはリョウ君へのメッセージね」
「うん」
珠子は恥ずかしそうに頷いた。
「それじゃ落款印を作ろうか」
「らっかん?」
「自分のサインの傍に押すハンコのことよ。これが有る無いで作品の印象が変わるの」
「そう言えば、山本先生が言ってたね。次回教室に来てくれたら印を作りますって。ミサオ、次もこの教室に行こう」
「わかった。行きましょう。ところで、この絵手紙、早くリョウ君に届けたいんでしょ」
「うん」
「それでは簡易的な印を作りましょう」
操はじゃがいもを一センチ角の拍子木に切ったものを持ってきた。
薄紙にアタリの枠を書くと、
「姫、この紙の枠の内側に片仮名の『タ』をしっかり太く書いて」
6Bの鉛筆を渡した。
珠子は筆圧をかけて薄紙に書いた。それを裏返しにしてじゃがいもに付けて指先でしっかり撫でた。紙を取るとじゃがいもの断面に鉛筆の文字が転写された。彫刻刀やデザインカッターが無いので、竹串で少しずつじゃがいもを削った。
出来上がったものに朱肉を付けて裏白のチラシに押してみた。
「姫どう?これ」
「あ、ハンコだ」
「そう、芋版っていうの。私が子どもの頃はこういうのを作って年賀状に押してたの。干支の絵を彫ったなあ」
珠子の絵手紙をテーブルに置くと
「それじゃ姫、これを名前の近くに押すよ」
珠子の手をとって芋版を持たせると落款もどきを押した。
「決まったね。素敵。早速、リョウ君に渡しに行こう」
「うん」
二人は208号室のインターホンを押した。
「はい」
「こんにちは。神波です」
扉が開いて爽やかな美大生が顔を出した。
「こんにちは。どうされました?」
「姫がねリョウ君に渡したいものがあるんですって」
操の話を聞いて涼はしゃがんで珠子と目線を合わせた。
「タマコちゃん、こんにちは」
「リョウ君こんにちは。今日これを描いたの。この間、絵をいっぱい見せてもらったお礼です。受け取ってください」
珠子は両手で絵手紙を差し出した。
「うわー、凄い素敵。これタマコちゃんが全部描いたの」
「はい」
珠子はもじもじしながら返事をした。
「ありがとう。いつも見えるところに飾るね」
涼は立ち上がると
「あれから大丈夫ですか」
操に聞いた。
「うーん、何とも言えない感じです」
「外出、気を付けてくださね。タマコちゃんこれ本当にありがとう。大切にするね」
珠子は頬を赤らめて
「バイバイ」
手を振った。
自分たちの部屋の前に戻ってきた時、帰ってきた恵と会った。
「神波さん、先ほどはありがとうございました」
「恵さん、お帰りなさい。で、山本先生と話できた?」
「はい。ただただ平謝りしました」
「そうですか。過去にそうだったように、これからも気さくにお話できるようになると良いですね。あっ、そうだ、山本先生の次回の教室も私たち受けようと思ってます。予約お願いします」
「はい、承知しました。それじゃ」
「ごめんください」
操と珠子は、手を振った。