東雲色の夢
「ミサオ、苦しいよ。もっと優しくぎゅっとして」
珠子が囁く。
だんだん抱きしめる力が柔らかくなり、優しいハグになった。
「ミサオ、あったかい。ミサオ大好き」
「私も姫が大好きよ。ずっと傍にいてね」
「うん。ミサオもね」
やがて窓から柔らかい淡いオレンジ色の光が差し込んで、珠子は目覚めた。
目の前では源が微笑んでいる。
「パパ、おはよう」
「珠子おはよう。相変わらず可愛いな」
源に抱き上げられた珠子は恥ずかしそうに源の首もとに顔をうずめた。
「ねえ、パパ、タカシはどこ?」
「俺にライバルのことを聞くのか?しょうがないな」
源は珠子を下ろすと、くるりと彼女を振り向かせた。目の前に孝が立っている。
「タマコ、目を覚ましたんだな。よかった」
孝は泣いていた。
朝、起きただけなのになぜ泣くの?と珠子が聞くと、孝は何も言わずにハグをしてくれた。
遠くに独特なトーンの赤ちゃんの泣き声がする。
見ると鴻が元太を抱いてこちらにゆっくりと歩いてくる。
「ママ、お家で休んでないとダメだよ」
珠子は言った。
鴻は微笑みながら珠子の目の前で元太を立たせた。
「元太、もう立てるの?」
驚いた珠子を見て、元太はぎこちなくしゃがんで両手を床につけると、はいはいをして珠子の足もとで声をあげる。
「もう、目を開けて」
元太が喋ってる!
「ママ、元太が」
珠子は鴻を見た。鴻も、もう目を開けて、と言う。
あれ、私はまだ目覚めてなかったの?
わかった。私、目を開けてみる。
病院から源のところに連絡が入ったのは、珠子が救急搬送されて四日目の朝だった。
珠子の意識が戻り容体が落ち着いたので一般病棟に移ったと言う報告で、源は、それを聞いて床に座り込んだ。急いで、操と孝を連れて病院へ向かった。孝はどうしても珠子のところに行きたいと、父親の柏に頼み込み学校を休む連絡を入れてもらったのだった。
三人は病院に着くと、はやる気持ちを抑えながら珠子の病室に向かう。
この病院は、この辺りでは比較的設備も充実しているが、小児専門病棟がない。源たちは連絡をもらったときに言われた病棟のナースステーションに声をかけた。担当の看護師について行くと、病室で珠子が操たちに気がついて顔を三人に向けた。
「姫……」
操はベッドまで進むと、そこでへなへなとしゃがみ込んだ。
よかった…声は出なかった。聞こえたのは嗚咽だけ。どう言葉を紡げばいいのかわからない。
「ミサオ、泣かないで」
珠子が右手を差し出す。細い小さな人差し指には酸素量を計測するためのコードがテープで固定されて、それだけで痛々しさを感じる。
その手を操はそっと握った。
源と孝は部屋の隅で、祖母と孫の静かなふれあいを見守った。
そして、操と源は主治医の話を聞くためにカンファレンス室へ向かった。孝は病室に残り、珠子の傍で何も言わずに彼女を見つめていた。
「タカシ、今日はお休み?」
珠子の問いに無言で顔を左右に振る。言葉を発したら泣いてしまいそうで、ぐっと堪ている。一つ深呼吸をして孝が言う。
「タマコに会いたかった。だから、学校を休んだ」
「タカシ、もっと近くに来て」
珠子に言われて、孝は倚子に座ると顔をぐっと近づけた。
「マスクを取って顔をしっかり見せて」
「それはできない、病院だから。早く元気になって家に帰ろう。そうしたら」
「そうしたら?」
「う、うん。とにかく早く帰ってこいよ」
孝は早口で言った。
廊下から足音がして、操と源が病室に戻ってきた。珠子が操たちを見た。
「もう私帰れる?」
「珠子、もう少しの間ここで辛抱して」
源が話しながら柔らかな髪をくしゃっと撫でる。
「えーっ、帰りたい」
「姫、お願い。もうちょっと我慢して」
操も珠子に言い聞かせる。
「だって」
珠子もなかなか引かない。
「だって、家に帰ったらタカシが私に」
「孝君が珠子に?なんだ?」
源が聞く。
「言わない」
珠子は少し不機嫌な素振りをした。
「姫、今日いくつか検査をして結果が良ければ、明日以降に帰れるからね。もう少しの辛抱よ」
操が珠子に言い聞かせた。
病院からの帰りの車中で、操は事件が起きた時のことを話し始めた。ショッピングモールから駅に向かう少しの間に天気が急変して土砂降りになったので、駅のコンコースで雨宿りをしていたの、と操は言った。
「姫は雲の早い動きが面白かったみたいで、エントランスから空を見上げていたの。その時、改札の辺りが騒がしくなって刃物を持った男が現れた」
操は自分の服の胸元をぎゅっと握ると声を震わせた。
「そいつ、駅のホームで暴れて、そこでも怪我人が出たんだよな」
源が、ニュースで犯人は誰でもいいから何人も殺して自分も死刑になりたかったって報道してたぞ、と言い
「ふざけんな!」
と、ハンドルを強く叩いた。
「コウちゃんは大丈夫?」
操が源に聞いた。
「母さんと新しくできたショッピングモールに行った帰りに巻き込まれたとだけ言ってある」
「そう」
「警察の聴取、俺も立ち合おうか」
源がちらっと見ると、お願い、と操が頷く。
「ところで孝君」
後部座席に聞こえるように源が大きめな声を孝にかけた。
「はい」
急に呼びかけられて慌てて返事をする。
「珠子が退院して帰ってきたら何をするの?」
「えっ」
「孝君が何かしてくれるから珠子は早く帰りたいって言ってるんだよね。で、何をしてくれるの?」
「い、いえ。おれは…」
「チューをするとか?」
「言ってない、言ってないです」
孝が必死に否定する。
男子二人のやりとりを聞いて、久しぶりに操は笑顔を浮かべた。