鈍色の夢
雨音で珠子は目覚めた。
風も強いのか窓ガラスに雨の打ち付ける音がしていた。
珠子はいつも操のベッドで一緒に寝ている。隣を見たが操はいなかった。
こんな天気なのに外の掃除をしているのかなあ、そう思った珠子はベッドから降りると、キッチン、トイレ、浴室、現在物置にしている将来の珠子の部屋、全て覗いて見たが操はいなかった。
玄関の扉を開けて外を見た。
「うわっ」
吹きつける雨で珠子の上半身は、あっという間にびしょ濡れになった。慌てて扉を閉めた。操の姿はなかった。
珠子は着ていたものを全部脱いで、それを洗濯機に放り込んだ。タオルで濡れた体を拭いた。
「ミサオ、どこに行ったの?」
珠子は口に出して言ってみた。もちろん返事はない。
そういえば、今何時なんだろう。窓の外は真っ暗ではないが雨雲のせいで薄暗い。時計を見ようと思ったが壁のも棚の置き時計もなんか見えづらく時刻を確認できなかった。仕方がないのでテレビをつけた。何も映らない。白っぽく光っているだけだ。とにかく雨が止むのを待つしかない気持ちになった。
タカシはまだ寝ているのだろうか。雨足が強すぎて隣なのに行けない。急に寂しくなった。そして寒くなった。
仕方がないので寝室に戻ってベッドで寝ようと思った。
ドアを開けるとベッドの布団が人型に持ち上がって膨らんでいる。操が戻って寝ている。よかった。ほっとした。
珠子は布団に潜り込んだ。操の方を向いて
「どこに行ってたの。探したんだよ」
と言いながらしがみついた。
珠子も抱きしめられた。いつもより力強く感じる。
「ミサオ、ちょっと苦しいよ」
珠子の声が聞こえないのか、抱きしめられると言うより締めつけられてる。息ができない。
「姫」
「姫」
「姫!」
「珠子!」
「タマコ!」
どこかで自分を呼んでいる。返事をしなくちゃ。でも声が出ない。あれ、声ってどうやって出すんだっけ?目を開けて周りの様子を確認したいのに瞼が持ち上がらない。
「姫!」
「珠子!」
ミサオとパパの声かな?さっきはタカシの声も聞いた気がする。
三日前、珠子と操は駅向こうの大型ショッピングモールに出かけた。ここは、この夏にオープンしたばかりで二人とも初めて訪れたのだった。
フロアマップが置かれているスタンドの前に行くと今年の夏号まで珠子が表紙のモデルをしていたタウン情報のフリーペーパーも並んでいた。今回から新しい子どもが表紙を飾っていた。
「この子が新しいモデルさんね」
操がペーパーを手に取ってじっくり見ていた。
「今回は男の子なんだね。カワイイね」
珠子も表紙を見て素直な感想を言った。
操はフリーペーパーを戻しフロアマップを手に取ると、珠子と手を繋いでモールを歩き回った。
今日二人がここに来たのは、出産したばかりの珠子の母、鴻に何かプレゼントをしたくて探しに来たのだ。
「プレゼントって難しいわね。自分のものならすぐ決められるけど、人の欲しいものってわからないわ」
「ミサオ、私たち…その…いろいろな気持ちを感じられるじゃない。こういう時ってその力を使ってもいいのかなあ」
珠子が操を見上げた。
「確かに、私たちはいろいろ感じ取れるけど、大事なのはプレゼントをする人を思って考えて私たちの気持ちを差しあげるの。でもコウちゃんが疲れているのは確かよね。だから体が楽になるものを探そうか」
「うん」
珠子は一生懸命考えた。
最近コマーシャルで肌着やパジャマを着ると体が楽になるっていうのを見たような記憶がある。操に提案してみた。
「それ、いいわね」
二人は早速その売り場にいってプレゼントを購入した。綺麗にラッピングしてもらい操が言った。
「姫、パフェでも食べて帰ろうか」
珠子は片手にプレゼント、もう片方は操と手を繋いでスキップしてフルーツパーラーに向かった。
甘いものを食べてご機嫌な二人は気分良くショッピングモールを後にした。
「ミサオ、柿のパフェ珍しかったね」
「以外と柿とチョコの相性がよかったわ。姫は相変わらずプリンアラモードが好きね」
「うん。プリンだーいすき」
そう言えば『ぶるうすたあ』の看板犬、プリンちゃんに会いたいなあと珠子は思った。
駅までの短い距離を歩きながら操は空を見上げた。
「急に雲行きが怪しくなってきたわ」
「あ、降ってきた」
珠子も空を見上げる。
「季節の変わり目はこんなふうににわか雨が降りやすいのね。姫、駅で雨宿りしようか」
操が珠子を見ると、
「うん。少し待ったら止むかもね」
珠子が頷いた。操は鴻へのプレゼントを手に、コンコースのベンチに座り珠子に声をかけた。
「姫もこっちにおいで」
「ここから雲が動くのが見えるの」
珠子は入り口近くで空を仰いだ。
その時突然、改札の辺りが騒がしくなった。中年の男が刃物を片手に何か叫びながらこちらへ走ってきた。
操は慌てて珠子を自分の傍に連れてこようとしたが、刃物男の方が先に珠子の手を掴んだ。珠子は何が起きたのかわからず、男に手を掴まれたまま土砂降りの中に連れ出された。
操が近づこうとすると何かを叫びながら刃物を振り回し傍に行けない。周りの通行人も様子を覗うが手出しはできない。
通報を受けて駅前交番の警官が駆けつけたが彼らも下手に動けないでいた。
「その子を放しなさい」
「うるせー」
操はパニックでその場にしゃがみ込んだ。
珠子は操の様子を見て、自分の手を掴んでいるこの男を何とかしなくちゃと思った。
男を見ると興奮状態で何を言っても聞かないのはわかった。
滝のような雨の中で、珠子は全身に力を入れて、放せ、放せ、放せと呟いた。体中が熱くなり珠子の手を掴んでいた男の手は重度の火傷を負ったようだ。
「ぎゃあー」
と悲鳴をあげながら男は刃物を投げ出し、火ぶくれ状態の手をかざすようにしながら水たまりの地面を転がった。
「確保!」
警察官が男を取り押さえた。
珠子はすとんと膝をついて大きな水たまりにうつ伏せで倒れた。
操が駆け寄り珠子を仰向けにして叫んだ。
「救急車お願いします!」
この子を助けて……操が泣き叫んだ。
あれから三日が過ぎた今も、珠子は意識が戻らず集中治療室でたくさんのコードやチューブに繋がれ、酸素マスクがつけられたまま何とか呼吸をしている。
集中治療室の面会は時間の規制があり日に一度、家族しか入れない。
担当医の話では、肺に水が溜まり溺れているような状態だそうだ。水がある間は酸素の取り込みが少なく苦しいだけでなく全身酸欠状態で体の小さな珠子は急変する可能性があると言われてしまった。
「母さん、少し休もう」
待合室で、源が操の肩を抱いた。
「タイミングが悪かったって思うしかないよ。悔しいけど」
「甘いものを食べなければ、にわか雨に合わず雨宿りもしないで帰れたのに。私と一緒に駅のベンチに座ってれば、あんなやつに捕まれることもなかったのに」
今の操は自分で動くことができなかった。
ICUの待合室もそう長い時間いられない。
「母さん、帰るよ」
源に抱えられ病棟を後にした。
操と源について行った孝も珠子を見舞ったが一度彼女の名前を呼んだきり、一言も声を出せなかった。
源は鴻のことも気になっていた。
彼女のためのプレゼントを買いに行った帰りに事件に巻き込まれたとは、もちろん言っていない。珠子があんな目にあった事は許せない。ただ、現状、珠子は病院に委ねるしかないのだ。
今の源は、愛妻の鴻と生まれたばかりの元太を守らなければと強く思っている。
珠子、俺はおまえの生命力の強さを信じてるよ、と源は愛娘の笑顔を思い浮かべた。