珠子のオムライス
正午を回ってアパートの外が少し騒がしく感じ、珠子は柏の部屋を出た。
今朝、珠子の父親・源と祖母・操が、母親・鴻と新生児の弟・元太を産院へ迎えに行っていたが帰ってきたようだ。
源の車が止まっていたので、珠子は部屋の前で様子を見守った。
源が車を降りて、珠子に気がつくと傍に行ってしゃがみ目線を合わせた。
「ただいま。これから元太をベッドに寝かせたり、荷物を片したりするから、珠子はもう少し月美さんのところで待ってて。全部終わったら迎えに行くから」
「うん。わかった」
頷いた珠子の後ろに目をやると、ちょうど月美が部屋から出てきた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました。月美さん、申し訳ないんですが、珠子をもう少しお願いします」
立ち上がった源は、珠子を月美のもとへ連れて行った。
「ええ、もちろん。他に手伝うことがあったら遠慮なく言ってください」
月美が言うと、
「ありがとう。何かあったら声をかけさせてもらいます」
源は人懐こい笑顔を見せた。
「珠子ちゃん、お昼何食べたい?」
月美がキッチンに立って聞いた。
珠子は少し考えて
「オムライスが食べたいです」
と答えた。
「珠子ちゃんは、薄焼きとトロトロ、どっちの卵がいいかしら」
「トロトロのが食べたい!」
「了解。ちょっと待っててね」
珠子の頭の中では、前にテレビの情報番組で見たケチャップライスの上にふるふるのオムレツが乗っていて、それにナイフを入れるとでろんと柔らかな卵が広がるシーンが浮かんでいた。操が作ってくれるオムライスは薄焼き卵で包むものなので、トロトロ卵が食べられるのが楽しみな珠子なのだ。
ケチャップとバターに火が入った香ばしい匂いがする。
珠子はクンクンと美味しそうな匂いを吸い込んだ。それを見ていた月美はくすっと笑いながら、キッチンを離れて自分たちの寝室へ行き、柏のデスク用チェアーを持ってきた。
「珠子ちゃん、こっちの倚子に座ろうか」
珠子が今まで座っていた倚子を退かし、持ってきたエアーで高さが調節できる柏の倚子に座らせた。
「これだと座面が高くなるからね。ただこの倚子の脚にローラーがついてて動くから気をつけてね」
月美はレンジの前に戻ると卵をじゃーっと焼いた。
珠子の前にオムレツが乗ったケチャップライスの皿が置かれた。
「うわー」
珠子が思わず声をあげた。
「はい、お待たせしました。卵の上の部分に切り目が入っているからスプーンで広げて」
月美に言われた通りに珠子はスプーンでオムレツを開いた。
「いただきます!」
トロトロ卵とケチャップ味のチキンライスを口に運んだ珠子は、幸せいっぱいの顔で
「うんまーい!」
スプーンが止まらなかった。
「よかった」
ぱくぱく食べる珠子を月美は嬉しそうに見た。
「月美さん」
「なあに」
「作り方を教えてください」
珠子が最後の一口を食べ終えて、お願いをした。
「いいわよ。孝が帰ってきたら、おやつ代わりに小さなオムライスを一緒に作りましょう」
「はい」
「タマコいる?」
午後二時を過ぎて孝が飛び込むように帰ってきた。
「孝、ただいまは?」
月美がたしなめる。
「ただいま。タマコいるの?」
孝が言い直した。
「いるけど、まず手を洗ってらっしゃい」
ランドセルを受け取った月美が、洗面所の方へ孝の背中を押した。
「タマコ、弟は来たのか?」
手を洗い終わった孝が、ノッシーの辺りへ行き珠子を探した。
「ん?いい匂いがする。けど、タマコどこ?」
「こっちよ」
月美がキッチンから声をかけた。孝が行ってみると、踏み台に乗った珠子が真剣な顔をしてガスレンジの前でフライパンと格闘していた。
「炒めた具を向こうの方にやって、手前の空いたところにケチャップを入れて水分を飛ばして」
月美に教えてもらいながらケチャップライスを完成させた珠子は更に緊張した面持ちでオムレツを作り始めた。それを見ていた孝にも緊張感が伝染して静かに珠子を見守った。
「もう、火を止めていいわよ。形をフライパンの縁で整えて」
皿に広げたケチャップライスの上にオムレツをコロンと乗せた珠子は、ふうーっと息を吐いた。
月美が素早く切れ目を入れると孝に言った。
「早く座って」
着席した孝の前に、珠子が小振りな皿のオムライスを置いた。
「タカシ、召し上がれ」
「孝、オムレツの切れ目にスプーンを入れて開いて」
珠子と月美の視線を感じて緊張しながら孝が柔らかいオムレツをスプーンで広げた。
「トロトロだ。いただきます」
一口食べて
「うんまーい!」
孝が大声をあげた。
「タマコ、すんごく美味しいよ」
「よかった。お昼に食べさせてもらったら、とっても美味しかったから作り方を教えてもらったの」
珠子は嬉しそうに言った。
「今度はミサオに食べてもらおう」
しばらくして、源が柏の部屋を訪れた。
孝が玄関の扉を開けた。
「孝君、こんにちは。珠子を迎えに来たんだ」
源は孝をしっかり見つめた。
最近、珠子は自分より孝の方が好きらしいと知り、勝手にライバル視している源なのである。
「こ、こんにちは」
源の目力に圧倒されながら孝が挨拶をすると、珠子が走ってきた。
「パパ、迎えに来てくれたの?」
「そうだよ。元太が待ってるから行こう。月美さん、ありがとうございました」
キッチンで洗いものをしていた月美が手を拭きながら出てきた。
「おかえりなさい。珠子ちゃん、またね」
「はい。オムライス教えてくれてありがとう。またお願いします」
「珠子、オムライス作れるようになったのか」
源が聞くと珠子は得意気に頷いた。
「タマコのオムライス美味かった」
孝が言うと
「パパにも作ってくれ」
少し悔しそうに源が珠子の手を握った。それを見ていた月美がくすっと笑った。
「あの、タマコのお父さん、おれも元太君の顔を見てもいいかな」
孝の頼みを
「今日はみんな疲れているだろうから後日会わせてもらいましょう」
月美が制した。
「パパ、私の弟、タカシに会ってもらいたい」
珠子に言われると源は嫌と言えない。
「わかった。孝君、一緒にいらっしゃい。月美さんもどうぞ」
「いえ。私は日を改めて柏君と伺います。孝、マスクつけて行きなさい」
月美は珠子たちを送り出した。
珠子と源と孝は階段を上って201号室に入った。
「二人とも洗面所で手を洗っておいで」
源に言われて珠子と孝は洗面所へ消えた。
「源、姫は来たの?」
操が玄関に来て周りを見回す。
「今、孝君と手を洗ってるよ」
パタパタと洗面所から戻った二人を操が手招きした。
源と鴻の寝室のドアをそっと開けると小さな声で操が言った。
「今、二人とも寝ているから静かに入って」
珠子たちが寝室に入ると、部屋の奥のベビーベッドに小さな赤ちゃんが、その柵にもたれかかって鴻も眠っている。鴻の頭と柵の間にクッションが入れられていた。
珠子と孝はそっとベッドの傍に行くと、柵のすき間から覗いて小さな口を開けて眠っている小さな小さな赤ちゃんを見つめた。
「可愛いな」
「手も足も小さいの」
珠子と孝はお互いの耳元で囁いた。
孝はしばらく元太の寝顔を見つめていたが
「おじゃましました」
玄関に向かった。
「タカシ君、月美さんに姫を預かってくれてありがとうって、またお世話になりますって伝えてちょうだい」
操が言うと、孝は頷いて源の部屋を出ていった。
「源、コウちゃんをベッドに寝かしてあげましょ。手伝うわよ」
「俺一人で大丈夫だよ。母さんも疲れただろう。ありがとう」
「それじゃ姫、私たちも戻りましょう」
「うん。パパまたね」
操たちが源の部屋を出ようとしたとき、源が珠子に言った。
「珠子、オムライス、パパにも作ってくれよな」