珠子の寝息、孝の夢
鴻が入院した日の夜、病院から戻った操が珠子を迎えに柏の部屋を訪れた。
「こんばんは。月美さん、ありがとうね」
操の声に珠子はダッシュした。
「ミサオ、ママはどうなったの?」
珠子は操に抱きついた。
「大丈夫よ、姫。あなたの弟が出たがって暴れたみたい。検査と診察では問題ないけど大事をとって、おそらくこのまま出産まで入院すると思うわ」
操が珠子の背中を優しくぽんぽんとして、
「こっちに戻ろうか」
「うん」
珠子が靴を履くのを待った。
月美と柏と孝も玄関で操に話を聞いた。
「珠子ちゃんはしばらく私たちが預かっても大丈夫ですよ。お義母さん、鴻さんの荷物とか大変じゃないですか?」
月美が心配する。
「そうだよ、タマコはこっちにいても大丈夫だよ」
柏も孝もしばらくここにいればと勧めた。
「源兄さんはいつ帰ってくるの?」
柏の問いに、明日の朝直接病院に行くらしいと、操は答えた。
「入院に必要なものの用意、私も手伝いますよ」
月美の申し出に操はそうしてもらおうかな、と考えた。
「じゃあ手伝ってもらえる?で、姫は今夜ここにお世話になる?」
操の問いに珠子は履きかけた靴を脱いで
「じゃあ、タカシと一緒にいる」
孝の隣にならんだ。
「カシワ、タカシ君、姫をお願いします」
操と月美は、鴻の入院のための荷物をまとめるため柏の部屋を出ていった。
ノッシーは夜も元気にザクザクと床材を踏み締めてケージの中を歩き回っている。
「こいつ、よく動き回るだろう」
孝は横で一緒にリクガメを見ている珠子に言った。
「うん。楽しそうに歩いてるね」
「ノッシーはたくましいんだ。おれさ、辛いことがあったときは、こいつのことをじっと見るんだ」
「そうなの」
「そう。こいつってさ、水入れがあってもクチバシを削るための大きな貝殻があっても、構わず歩いて進むんだ。乗り越えたりグイグイ押していったり、とにかく前に突き進むんだよ」
「たくましいね」
「たくましいだろ。おれもノッシーみたいに前に進もうって気持ちになるんだよな。こいつにグイグイ押されるような気がして元気になるんだ」
そう言う孝の顔を見ていた珠子は小さく頷いた。
珠子は、自分のために一生懸命話してくれるタカシを見て元気になるよ、と思った。
一人でシャワーを浴びて孝のお古のTシャツをパジャマ代わりに着た珠子が居間に戻った。
「タマコ、今夜はタカシのベッドで寝るか」
柏が言うと孝が顔を紅くした。
「タカシ、おまえ何照れてるんだよ。おまえはベッドの横に布団を敷くから、今夜はそこに寝ろ」
「カシワ君、私、タカシと同じベッドで寝てもいいよ」
珠子は言ったが、柏は首を横に振った。
「タマコもレディだからな。寝床はちゃんと分けないとな。タカシは風呂に入ってこい。その間に布団を敷いておくから」
「はあーい」
と、孝は浴室に行った。
「タマコおいで」
柏が珠子を連れて孝の部屋に入った。
「ここに来たの二回目だね」
珠子が言った。
「ああ、月美たちが越してくる前にタマコがここを掃除してくれたんだったな」
「窓を拭いただけだけどね」
「枕、新しいのがあるよ」
柏が布団セットを広げて、枕を見せた。
「このタカシの枕でいい」
珠子はベッドに横になりそこにあったタオルケットと布団を掛けて目を閉じた。
風呂からあがった孝が自分の部屋に入ると客用の布団がベッドの横に敷かれてあった。
「タマコ」
孝が声をかけた。返事はない。
「お休み」
部屋の灯りを消して、孝は床の布団にもぐると瞼を閉じた。
微かに珠子の規則正しい寝息が聞こえる。孝は自分の呼吸を珠子のそれに合わせた。少しずつ意識が遠くなっていく。
部屋は暗いのに珠子の顔が見える。なんでだろう。孝は目の前にいる珠子の手を繋ぎたくて手を伸ばした。すぐそこにいるのに手に触れることができなかった。
タマコ!
呼ぼうとしたが声が全く出ない。息を吐き出してもヒューっとなるだけで声にはならなかった。
珠子は笑顔で孝に向かって手を伸ばしている。やはりそれに触れることができなかった。そして、珠子は走り出した。孝は追いかける。絶対自分の方が足が早いのに追いつけない。どんどん二人の距離が離れていく。
珠子はどこに行こうとしてるんだろう。自分はなんで一緒に行けないんだろう。珠子はどんどん小さくなって、やがて小さな点になり…消えた。
孝は泣いた。声をあげて泣いた。タマコ!と呼べなかったのに、大声で泣いた。
「タカシ」
涙が止まらない。
「タカシ」
新しい枕が涙と鼻水で汚れる。
「タカシ!」
誰かが自分の名前を呼んでいる。幼い声だ。
孝は涙でぐちゃぐちゃの瞼を開けた。常夜灯はついているが部屋は暗い。少しずつ目を慣らしていくと、珠子が覗き込んでいた。孝はゆっくり起きあがった。珠子は孝の布団の横に正座をしていた。
「おれ、なんか嫌な夢を見てた」
孝が涙をごしごし拭って言うと、珠子は小さな声で謝った。
「タカシ、自分のベッドで寝なかったから変な夢を見たのかな」
「違うよ。もう大丈夫だから、タマコはちゃんとベッドで寝て」
「うん」
「おれのベッドの寝心地はどうだ?」
「タカシになった気分」
「なんだ、それ」
孝は笑いながら言った。そして真面目な声になった。
「なあタマコ」
「なあに」
「……どこにも行くなよ」
「私、ずっとタカシの傍にいるよ」
「うん」
孝は、ほっとしてゆっくり目を閉じた。