推しの神波孝
今日から二学期が始まる。
部屋を出ると、外で珠子が立っていた。
「タカシ、いってらっしゃい」
「いってきます」
少し照れながら神波孝は、珠子に見送られて小学校へ向かった。
夏休み前は山口君だった彼は、今日から学校で神波君と呼ばれる。なんとなく気恥ずかしい。
久しぶりの教室で授業が始まる前に、担任の先生から孝の苗字が神波になりましたと言う簡単な説明があった。
クラスメイトから、なんで苗字が変わったのと聞かれた孝はいろいろあって、とだけ答えた。
孝に関心のある女子たちからは、かなりしつこく質問攻めにあった。前に駅前で可愛い女の子と一緒にいたところを見たけど、その子と関係があるのかと聞かれた。孝は何も答えなかった。帰りに孝の家に行っていいかと言うので、だめだと言った。
しかし、下校の時間になり孝の後を何人かの女子が探偵のようにこっそりつけていた。
孝は『ハイツ一ツ谷』に帰っていき、そこに珠子が立っていた。
「タカシお帰り」
「ただいま」
「タカシ、月美さんはミサオのところにいるよ。こっちで一緒におやつ食べよう」
珠子に手を引っ張られながら孝は101号室に入っていった。
その様子を物陰から見ていた女子探偵団もどきは
「あの子、前に駅前で山口君、もとい、神波君と手を繋いで歩いていた子だよね」
「凄く仲よさそう」
「たしか『フラワ・ランド』のフードコートで会ったとき彼のファンだよって言ってた子だ」
「いったいどういう関係なのかしら」
気になるよね、と彼女たちは声を揃えた。
操の部屋で、珠子と孝はシュークリームを食べていた。
「美味しいね」
珠子は口の周りにカスタードクリームをつけて笑った。
「クリームついてるぞ」
孝は人さし指で珠子の口もとを拭うとそれをぺろりと舐めた。珠子はちょっと恥ずかしそうな顔をして、ありがとうと言った。
「あの子たち本当に仲がいいわね」
二人を見て月美が思わず呟いた。
「タカシ君と姫を見てると、姫の両親の小さな頃を思い出すわ」
操が遠い目をして言った。
「源さんと鴻さんの子どもの頃のことですね」
「そう」
「柏君から聞きました」
「源とコウちゃんは、まだ喋れないぐらい小さな頃から仲よしで、あれから三十四年以上経った今でもとっても仲がいいの」
「なんか不思議ですね。柏君と私みたいに孝を介して知り合って一緒になる夫婦もいれば、珠子ちゃんのご両親みたいに生まれたときからずっと傍にいて夫婦になることもある」
「出会う時期や年齢はいろいろだけど、この人と一緒にいたいって感じるのって理屈じゃないと思うの。多分、姫とタカシ君も頭であーだこーだ考えているのじゃなくて、ただただ、お互い傍にいたいって感じてるんじゃないかしら」
「あの子たちを見ているとわかります」
月美が優しい眼差しで、珠子と孝が言葉を交わすことなくぴたりとくっ付いてソファーに座っている姿を見つめていた。
「でもね、それだけじゃご飯を食べていけないかも知れないし、生活できないかも知れない。生活力は必須よね。まだ、あの子たちにはずっと先の話だけど」
「あら、二人とも寝ちゃってる。お義母さん、タオルケットか肌掛け布団ありますか」
「うん。今取ってくるわ」
操は寝室からタオルケットを持ってくると横長にして、並んで座ったまま爆睡している珠子と孝にそっと掛けた。
翌日、孝が登校して教室に入ると
「神波君、おはよう」
昨日の女子探偵団の三人から挨拶された。
「おはよう」
「神波君て『ハイツ一ツ谷』ってアパートに住んでるの?」
探偵の一人から聞かれて、孝は、なんで知ってるんだと困惑した顔になった。
「実は、私たち神波君の後をつけたの」
「なんでそんなことするの。やめてくれよ」
孝は露骨に嫌な顔をした。
「私たち神波君推しとしては苗字が変わったのが気になるし、前に見かけた可愛い女の子と仲良くしているのを昨日も見ちゃったから、ね」
「そうそう」
三人組の女子探偵団はうんうんと言いながら孝にしつこく聞き出そうとする。
「何も言わないし、のぞき見みたいなことをするのをやめてくれ」
孝はそれだけ言うと自分の席に座った。
「相変わらず、連れないね」
でも、私たちめげないもんねと女子探偵団は今日の下校のときまた尾行を決行することにした。