四人家族
もう間もなく長めの夏の休暇を取っていた珠子の父、源が赴任先に行ってしまう。明日の夕方にここを出発すると言っていた。
今までは休暇で彼がこちらにいるときだけ、いつも一緒にいる操のもとを離れて、珠子は操の部屋の真上の201号室で源と鴻と三人、親子水入らずで過ごしていた。
珠子の目を怖がる生みの母である鴻も源が一緒なら、珠子と一緒にいられたのだ。
しかし、今回は201号室で珠子が過ごすことはなかった。源が、こっちにおいでと誘っても珠子は首を縦に振らなかった。
「珠子、どうしてパパのところに来てくれないんだ?」
源が寂しそうに尋ねる。
「ママはね、今が大事な時期でしょう。だから、今は私、我慢する。パパとママと弟君で仲良くゆっくり過ごして」
珠子の返事に源は悲しそうな顔になる。
「珠子、気を使ってくれるのはわかるけど俺はお前とも一緒にいたい」
源は珠子を抱きしめた。
ここは操の部屋で、源が珠子を呼びに来たのだ。
赴任先に行く前、一日だけでも一緒に過ごしたかったからだ。
珠子だって本当は源にべったり甘えたいのだ。もちろん、鴻だって源が傍にいる今なら怯える姿を見せないだろう。でもそれは彼女が必死に耐えているのだ。珠子にはそれが感じ取れてしまう。お腹の中の大事な弟がすくすく育つためには、姉である自分が我慢をするのが得策なのだ。
「パパ、だーいすき」
珠子は源にぎゅっとしがみついた。
「パパに、私がミユキちゃんのベールを持って歩く姿を見てもらえて嬉しかった」
「ああ、珠子は可愛くて綺麗だったぞ。なんか、珠子が嫁いで行っちゃうみたいな気がして、パパ泣いちゃったよ」
「パパが今度帰って来るのは、弟君が生まれるときだね。私待ってるから」
珠子は源の顔を見た。
「姫、源と一日だけでも一緒にいたら?」
操は作りたてのいなり寿司をタッパーに入れて持ってきた。
「普通のと、レモンを隠し味程度に入れたのを作ってみたの。これを持ってみんなで食べて。それから姫、これで美味しいお茶を淹れてあげて」
珠子は数回分厚いビニール袋にパックされた茶葉を渡された。
「珠子、おまえの淹れたお茶が飲みたいな」
源がタッパーを手にしながら珠子を強引に操の部屋から連れ出すことに成功した。
操が手を振って二人を送り出した。
源たちの部屋にあがった珠子を、鴻が笑顔で迎えた。
「珠子、やっと来てくれた」
「ママ」
珠子はそっと鴻に抱きついた。
「ママ、美味しいお茶を淹れるから待っててね」
鴻を椅子に座らせて、珠子は電気ポットの温度を確認した。急須に持参した茶葉をぱらぱらと入れ、少し冷ました湯を注いだ。その様子を源と鴻が嬉しそうに見守った。
珠子が銘々の湯呑みに慎重にお茶を注いでそれぞれの前に置いた。
「いただきます」
源と鴻がゆっくりお茶を味わった。
「珠子、美味しい!」
鴻が驚いた。想像以上に美味しかったのだ。
「珠子、おまえがこんなに美味いお茶を淹れられるなんて。どんどん大人になって…」
源は娘の成長を喜びながらも少しずつ自分たちから離れていきそうで寂しさも感じた。
「ミサオのおいなりさん食べよう」
珠子はテーブルの真ん中にタッパーの蓋を取っていなり寿司を置いた。
食後、源と珠子と鴻は並んでソファーでくつろいだ。珠子は鴻の大きくなったお腹にそっと手をあてて、源は珠子の柔らかな髪をそっと撫でていた。
「なんか、幸せ」
鴻の口から思わず言葉が出た。
「うん。幸せだ」
源もぼそっと言った。
珠子は鴻のお腹にいる弟に、パパもママも幸せだって言ってるけどあなたが生まれたらもっともっと賑やかでみんな幸せになるよ、と伝えた。
今、このソファーには仲良しの四人家族が座っている。