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美大生と珠子

「おはようございます」


朝、操が外で掃き掃除をしていると後から挨拶をされた。

振り向くと208号室の高田(りょう)だった。


「おはようございます、高田さん。今朝は随分早いのね」


「ええ、学祭の準備や課題やらでバタバタしちゃって」


あちらこちらに絵の具の付いたつなぎにフリースジャケットを羽織った涼は半分眠っているような顔で言った。


「お疲れ様ね。高田さんは洋画専攻だったっけ。そうだ、あなたの作品を鑑賞させて」


「鑑賞なんて大袈裟な。アトリエ代わりに借りてる倉庫にわちゃわちゃ置いてあるので、タイミングが合えば見に来てください。今日は一日中そこで作業しているので」


「ホント!それじゃ後ほど伺っちゃおう。差し入れ持って行くからリクエスト言って」


「気を使わないでください。ただ、汚れても良い格好でいらしてくださいね。あっちこっち絵の具だらけなんで。後でアトリエの場所送りますね。じゃあ行ってきます」


「いってらっしゃい」


──いつ見てもイケメンな好青年ねぇ


操はバランスの取れた体型の若者の後ろ姿を見送った。



今日の朝食は珠子が大好きな塩バターパンとブロッコリーのサラダとゆで卵とりんご入り野菜ジュース、小さな体でペロリと平らげた。


「姫、208号室の高田さん知ってる?」


食後のテーブルを拭きながら操が聞いた。


「知ってる。絵が上手なお兄さんでしょう」


「姫、高田さんの絵を見たことがあるの?」


「あるよ、スケッチブックだけど。デッサンなんて写真みたいに見えたよ。あと、抽象画って言ってたかな。イメージしたものを図形や色や筆のタッチなんかで表現するんだって」


珠子は、自分の事のように少し自慢気に答えた。


「さっき彼と会ってね、アトリエを見学させてくれるって」


「わあ、行きたい。きっと大っきい絵もあるよね。見たい見たい」




昼過ぎ、涼が送ってくれた地図を確認しながら操と珠子はアトリエへ向かった。

もうすぐ目的地というところで、操が足を止め、珠子の手をぎゅっと握った。


「姫」


「うん。分かってる。誰かが後をつけてるね。どうする?」


「この辺りは一本道で抜け道も無さそうね。このまま進むしかないか」


その時、向こうから手を振る人が現れた。


「こんにちはー」


高田涼だ。操はほっとした。彼がこちらに向かって走って来た。ただ、目線は自分たちの先の方に向けている。


「なんかつけられてましたね。もう大丈夫みたいです」


涼は二人に微笑みながら言った。


「ありがとうございます。助かりました。最近こんな事が時々あるんです」


「気味が悪いですね。何が目的なんでしょう」


三人は少し足早にアトリエに向かった。


高田涼のアトリエは、今朝本人が言った通り倉庫の様な造りの建物で、大きな窓とエアコンが完備された快適空間だった。


「これは油絵ですか」


アンデスの市場の人々を描いた大きなキャンバスを見ながら珠子が聞いた。


「それはねアクリル絵の具。乾くのが速いし、盛り盛りに乗せるのも薄く重ねるのもできるから使い勝手が良くてね。匂いもしないからね」


「この抽象的なのは水彩画ですか」


操が絵にくっ付きそうな姿勢で尋ねた。


「ああ、それは和紙に岩絵の具で、実験的な習作です」


「これが今制作中のですか」


珠子はイーゼルに立て掛けたキャンバスを見つめた。


「そう、課題がね『不思議』なんだよね。なんかベタだし掴み所が無いし、如何様(いかよう)にも解釈できるからかなり難題で行き詰まってるんです」


「真ん中が真っ白、これから描くんですか」


珠子は涼に顔を向けた。


「いやぁ、まだ何も手が着けられなくて。下絵の案が決まらなくてね。取りあえずお茶にしましょう」


涼はホーローのマグカップにルイボスティーを注いだ。操は持参したココナッツクッキーを出した。


「このクッキー美味しいから食べましょう。ルイボスティーときっと合うわ」


しばらくの間、三人はまったりしたティータイムを過ごした。


「そうだ、珠子ちゃんにデッサンのモデルをお願いしても良いかな」


涼が聞いた。そして


「珠子ちゃんの目が凄く印象的なんだよね。是非描かせてください。お願いします」


頭を下げた。


「やめてください。どうか頭を上げて」


珠子が慌てて言った。


「もちろんオッケーです。こちらこそ高田さんに描いて貰えるの光栄です」


ニコッと笑顔で応えた。


「あの…珠子ちゃんて四歳だよね確か。なんか落ち着いた大人と話しているみたいなんだけど」


涼は目を丸くした。


「姫はね大人と会話するのが大好きなの。だから話し方も大人っぽくなっちゃうのね。ところで学祭では何をやるの」


操が聞いた。


「僕は仲間とオブジェを展示するんです。模擬店は手伝いで呼び込みをするだけなんですけど。十一月の第一土曜日・日曜日なのでお時間が合えばいらしてください」


「姫、行こうね」


「うん」


「すっかり寛いでしまったって、作業の手を止めてしまったわね。そろそろ帰りましょうか」


操が腰を上げると、涼は笑顔で言った。


「良い気分転換になりました。珠子ちゃんにモデルをお願いできたし、クッキーも美味しかったです。いつでもいらしてください。今度は手ぶらで。ただ、大丈夫ですか。また後をつけられたら怖いですね」


「まだ明るい時間だから大丈夫でしょう」


「大通りまで送りますよ」


好青年が言ってくれたが、操は、大丈夫なので制作頑張ってくださいと伝えた。




アトリエを出て周りに気を配った操だったが、何事も無くアパートに戻った。


「高田さんの絵素敵だったね。早くモデルをしたいな」


珠子は嬉しそうに言った。


「彼、好青年よね。姫のスケッチ見たいわ」


しばらくの間、未来の芸術家談義が続いたが、


「ミサオ、アトリエに行く途中、私たちをつけていたのは何者なのかな」


珠子は不安そうに言った。


「分からない。後をつけられてるだけなら良いけど、危害を加えられる事になったら大変。どうしようか」


操も声が沈んだ。




操たちがアトリエを訪れた翌日、高田涼がスケッチブック等の画材を持って101号室にやって来た。


「すみません。おじゃまします」


「高田さんいらっしゃい。さ、上がって上がって」


操が招き入れる。


「高田さんこんにちは」


珠子が笑顔で迎えた。


「こんにちは。名字は堅苦しいからリョウって呼んでください」


「うん。リョウ君、いらっしゃい。こちらにどうぞ」


珠子が涼の手を引いて奥へ連れて行った。

ソファーに座ってもらい自分は向かい側の倚子に腰掛けた。


「早速デッサン良いかな」


「はい。よろしくお願いします」


「こちらこそ。それじゃそのままでいてね。疲れたら声をかけてね」


「はい」


涼は素早くドローイングを始めた。

最初は何パターンかポーズを取ってもらい、線でさらさらと形をとるクロッキーを何枚も描き、その後、決めたポーズで立体的な陰影をつけて描き込んだ。


「タマコちゃん、疲れたでしょ」


「まだ大丈夫です。ポーズ変えますか」


「うん、そうだね」


涼がポーズを伝えて珠子が従った。色鉛筆で彩色し終わると


「できた。タマコちゃんありがとう。良いのが描けたよ」


珠子は少し離れた所で見ていた操と、クロッキー帖とスケッチブックを見せてもらった。

そこには、顔を少し上に向けていたり横を向いたり俯いている珠子を流れるような線で描いたものと、陽の光を浴びてこちらをじっと見つめる珠子を色鉛筆で描いたデッサンがあった。


「素敵。姫が紙の中で生きているみたい」


操がつぶやく。


「リョウ君凄いです。これを元にあのキャンバスに描くんですか」


珠子も驚いた顔で聞いた。


「ええ、良い作品ができそうです」


涼が笑顔で言った。




涼が帰って、時計を見るともうすぐ正午になるところだった。


「姫、お昼は駅前のイタリアンを食べに行こうか。素敵な絵を見たら美味しいパスタが食べたくなっちゃった」


操の提案に珠子が首を傾げた。


「素敵な絵とスパゲッティーにどんな繋がりがあるのかな」




昼十二時を三十分程過ぎて二人は駅前のパスタ専門店を訪れた。店内はかなり混んでいたが、待たされること無く席に着くことができた。

カルボナーラとトマトクリームパスタを頼んでシェアして食べた。デザートのタルトタタンを食べ終わると、二人共幸せな笑顔になった。

ついつい食べ過ぎて重くなったお腹を軽く擦りながら店を後にした時、珠子が操に囁いた。


「気のせいかと思ったけど、そうじゃ無かった。後をつけてる人がいる」


「あの店にもいた人だね」


「うん。ミサオの後の席にいた人だよ」


「ここは人通りも多いから大丈夫だと思うけど」


丁度交差点にさしかかり歩行者信号が赤に変わったので、珠子と操は立ち止まった。

彼女らの真後ろに男が立った。車の往来が始まった。その時、二人の背中を押そうと男が手を伸ばした。両手に勢いつけようした瞬間、男の後にいたもう一人の男が腋に手を入れ羽交い締めにした。


「っ……」


「おい」


羽交い締めした男が低く声をかけた。


「何をしようとした」


後に違和感を感じた珠子が振り向いた。捉えられた男の肩越しに高田涼がいた。


「リョウ君、あ、この人パスタの店から私たちの後をつけてた人だ」


「タマコちゃん、こいつタマコちゃんたちを車道に押そうとしていた。おい、あそこの交番に行こうか」


捉えられた男はかなり暴れたが涼は涼しい顔でしっかりホールドしていた。




交番で事情聴取が始まった。


「あなたの名前は」


警察官が聞いても男は口を開かない。


「タブレットの画面を見て。今さっきの防犯カメラの映像、ここにあなたが映っていて、ほら両手を伸ばして前に立っている人たちを押すところね。で、あなたの後にいたこの青年が取り押さえた。何か言うことはある?」


警察官が言うと、


「俺は頼まれただけだ」


男の言葉に


「冗談じゃあ無いわ。あなた私たちを殺そうとしたのよ」


操が思わず叫んだ。

涼が珠子の両肩に後にからそっと手を置いた。珠子は振り向いて


「リョウ君、私大丈夫だよ」


小さな声で言った。涼は頷いた。




男は警察署に連行されて行った。

操たち三人も事情聴取を受け、後日改めて聴取をお願いする場合がありますと言われ交番を後にした。


「リョウ君、本当にありがとうございました。あなたがいなかったら今こうしていられなかった。姫も私も」


操が心からお礼を言った。


「とにかく無事で良かった。珠子ちゃんたちが出掛けた時、僕もコンビニに行こうと思って外に出たんです。で、お二人の後をこの前と似たやつがつけてるのが見えたんです。ほら二階からだと少し見渡せるんで。僕もその後を追って」


「じゃあ私たちが食事している間、外で待機してくれていたんですか」


「今日はパスタ気分じゃ無かったので、でもあいつは店に入っていって、お二人が店から出ると奴も出てきてあの交差点で」


「私たちもつけられているのは分かっていたんですが、まさかあんな事に……。それにあなた、お昼食べ損なったわよね。何かご馳走させて」


操が勇敢な美大生に言った。


「いえ、大丈夫です。僕自身初めての経験をしたので胸いっぱいになっちゃって。でも、これからも気を付けた方が良いと思います。それじゃ失礼します。タマコちゃん、またね」


涼は身軽にアパートの階段を上って行った。

操と珠子も部屋に戻った。


「姫、大丈夫?」


操が珠子を抱きしめて言った。


「うん。大丈夫よ。あのねリョウ君は本当にヒーローだよ。彼の周りは正義の力が溢れている。そして、カッコイイ」


珠子の頬がぽっと紅くなった。

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