神波鴻
鴻は静かに出産までの日々を過ごしている。前のときとは違う。精神的にとても落ち着いている。
かなりせり出た腹部をそっと擦る。あなたに会えるのを楽しみにしているわ。待ち遠しい。
ゆっくりと倚子から立ち上がり、レースのカーテンを開けて、南向きの窓から芝生の広がる庭を眺める。夏の朝の陽射しが眩しいが決して苦ではなかった。五年前、あの子がお腹にいたときとは違う。
もちろんあの子のことを大切に思っているし愛している。あの子は本当にいい子だ。それでも、あの可愛らしい顔をあの澄み切った瞳をずっと見続けることができない。ごめんなさい、珠子。
インターホンが鳴り、操の声がした。
妊娠七カ月を過ぎた最近は一日おきに朝晩鴻の顔を見に来る。
「コウちゃん、おはよう」
鴻が扉を開けると、元気な操がいつものように笑顔を見せた。彼女は鴻の義母であり実は養母であった。
操は、鴻があがってと言わなければ玄関先で少し立ち話をして帰っていく。今朝も鴻の元気そうな様子を確認すると、じゃあ夕方にまた顔出すね。と、言って真下にある珠子が待つ自分の部屋に帰っていった。
鴻は人との付き合いが苦手で相手との間に微妙な距離をとる。それは好きな人や信頼している人、であってもだ。
彼女が100パーセント心を許してずっと触れ合い見つめ合っていられるのは夫の源だけだ。その源は単身でここから遠いところで仕事をしている。会えるのは年に四回程度だ。もうすぐ夏の休暇で源が帰ってくる。待ち遠しい。
鴻の血を分けた両親は誰なのかわからない。
約三十四年前、この『ハイツ一ツ谷』から二駅離れた住宅地に居を構えていた神波家の門の前に柔らかな白い絹の毛布に包まれた赤ちゃんがおかれていたそうだ。
「鴻 四月八日誕」と記された紙切れが添えられた状態で。
その当時の詳しい話は聞かされていないが、鴻は神波家の養女になった。病院で診てもらい特に異常はなかったが、殆ど声を出さない子どもだったらしい。神波の両親は愛情たっぷりに育ててくれた。悪いことしたときは、なぜそれがいけない事なのか教えながらしっかり叱った。それ以外はたくさん褒めてくれ、たくさん抱きしめてくれた。特に一つ年上の源はずっと傍にいてくれた。まだ言葉がちゃんと喋れないときも、あーあーと彼は話しかけてくれた。鴻はその時すでに源のことが本能で大好きだったのだと思う。
やがて柏が生まれ柊が生まれ、その後、茜と藍の双子が誕生し神波家は六人兄弟姉妹のにぎやかな家庭になった。そんな中、鴻は弟たち妹たちとは殆ど喋らず彼らとは距離をとっていた。彼女はいつも隣にいてくれた源とは普通に話をし微笑み合った。その様子を見た操は、鴻は好き嫌いはあるものの心を許す者にはちゃんと自分を見せていることに安堵したそうだ。この時点では、源にはまだ鴻が実の家族ではないことを伝えていなかったが、薄々感じていたのだろう。
年頃になると、それなりの問題が出てきた。源と鴻はおかしい、兄妹の関係に見えないと、弟たち妹たちから言われた。その通りだ。二人はお互いを恋愛対象として考えているのだから。生涯愛する人だと思っているのだから。
仁と操は子どもたちを集め、鴻に確認した上で彼女が五人の兄弟妹と血が繋がっていないことを告白した。
電話の着信が鳴っている。操からだ。
「もしもし」
──ママ
「珠子」
──うん。ママ元気?
「元気よ。珠子の声も元気そうね」
──元気だよ
「珠子の声が聞けて嬉しいわ」
──私も。あのねママ、今ミサオが買い物に行ってここにいないので、こっそり電話してるの
「そうなの。なんのお話かな?」
──パパがね前に帰ってきたときちょっとお話したの
「なんの話をしたの?」
──パパがママに出会ったときの話
「大分昔の話ね」
──うん。パパが1歳くらいの頃だって
「そうなの?」
──パパね、まだ喋れなかったけど少し歩けたんだって。白い布に包まれたママをミサオが抱きかかえて外から連れてきて、パパがよちよち傍に行ったんだって。その時、ママと目が合って……
「うん。それで」
──ズッキュンって言ってた
「うふっ、何それ」
──パパ、1歳で恋に落ちたんだって
「本当?」
──うん、そう言ってた。
「なんでそんな話をしたの?」
──あのね、私大好きな人がいてね、4歳の子どもが変かなって相談したの
「そうか」
──そうしたらパパが、1歳のときからママのことが大好きだったんだから、4歳で恋してもいいんだよって。それでね
「それで?」
──その話をミサオも聞いていてね
「ええ、お義母さんも聞いてたの」
──私も二人の乳幼児の間にハートが飛び交っていたのが見えたってミサオが言ってた
「うふっ、変な話ね」
──変な話じゃないよ。パパね、ずうっとずうっとママが好きなんだって。毎日会えないけど毎日大好きなんだって
「嬉しいわ。でも珠子、なんでこんな話をしてくれたの?」
──うん。ママの声が聞きたかったから。私の声だけだったら怖くないでしょう
「珠子、ごめんね。情けないママで」
──そんなことないよ。ママが私のこと愛してくれているの知ってるよ
「そう、珠子が大好き!愛してる」
──ママの声が聞けてよかった。また電話していい?
「もちろんよ。夕方にお義母さんと一緒に顔を見せて。珠子をぎゅっとさせて」
──うん。わかった
嬉しそうな声の通話が切れた。
鴻はお腹を撫でながら、あなたのお姉ちゃんは泣けちゃうくらい優しくていい子ねと言いながら嗚咽を漏らした。