鰻が大好きな珠子(2)
シツコイ風邪が落ち着いて、お話の投稿を始められそうです。よろしくお願いします。
柊が柏から借りたミニバンに、石井親子と操と珠子が乗り込んだ。この車にはジュニアシートが取り付けられているので珠子も安心なのだ。
柊が車を発進させた。
珠子は声を出さずに、うなぎ!うなぎ!うなぎ!と口を動かしていた。横に座っている操が珠子を見て、やめなさいという目線を送りながら顔を横に振る。
『ハイツ一ツ谷』からおよそ三十分ほどで、鰻の老舗『松亀』に着いた。昼時のためほぼ満車の駐車場に車を入れると守之が車を降り柊に言った。
「店舗に一番近いところに、三角コーンが立っているだろう、これからそれを退かすから、そこに車を駐めて」
守之が三角コーンを撤去し、柊はそのスペースに車を駐めた。
操たちが車を降りて美子を先頭に店に入る。
「いらっしゃいませ」
和服の従業員が出迎えた。指示されていたのか、美子とアイコンタクトをとり半個室に操たちは案内された。
七月の終わり、土用の丑、夏バテ予防に防止、なぜか夏の暑い盛りに贅沢ではあるが鰻を食べたくなる。操は店に入った途端店内の活気に圧倒された。もちろん、がやがや騒がしいのではなく、八十席ほどある店内がほぼ満席なのだ。
「お忙しい時期によろしいのですか」
半個室のテーブルに、予約席のプレートが置かれているのを見ながら操が聞いた。
「気にしないで」
美子が微笑みながら、プレートを退かし案内した従業員に渡した。
「見栄を張って、店が繁盛してるところを見せたかったの。うふっ」
と美子が珠子にウインクした。珠子もウインクを返す。でも頭の中は漂ってくる蒲焼きの匂いでいっぱいだ。
「さ、座ってくださいな」
美子が促す。
「俺、厨房に行く」
守之がその場を離れようとすると、珠子が傍に立って手を取った。
「おじさん、私、生きているうなぎを見たいです」
「姫、お忙しいからやめなさい」
操が慌てる。
「構わないよ。おいで」
二人は、店の奥へと行ってしまった。
「勝手なことをしてすみません」
操が恐縮する。
「好奇心が旺盛って大事よ。操さんもよろしければご覧になります?」
美子が言うと操が顔を横に振った。
「私食べるのは大好きなんだけど、動いている姿はちょっと」
「わかるぅ。実は私もそうなの。だから厨房も殆ど入らないわ」
あははと操と美子が笑い合う。
「母さんたち結構気が合いそうだな」
「そうだね」
柊と美雪が小さな声で言った。
「合いそうなんじゃなくて、合うの私たち。ね、操さん」
「そう」
二人は顔を見合わせて、うんうんと頷いた。
守之に手を引かれた珠子は、コンクリート壁の薄暗い部屋の入り口にいた。八畳ほどのコンクリートの床に、焦げ茶色の細いすき間のある桶のような盥のようなものがたくさん積み上げられている。天井から幾つも管が伸びて、積み上げられたものに向かって水が落ちている。
「これはなんですか?」
珠子は初めて見る光景に目を丸くした。
「これは、鰻の泥を吐かせているんだ」
「これで泥がなくなるの?」
「あの積んである容器は養鰻篭ってものでね、中に鰻が何匹も入っているんだ。上から落ちているのはここの地下水なんだ。あの地下水が流れ続けて鰻の泥を抜いていくんだ」
「へえー。アサリは塩水で砂抜きするけど…」
珠子は最近の経験を語り、
「うなぎは綺麗な真水を流し続けると泥が抜けるんだね」
と、一つ勉強した。守之は一つ頷いて言った。
「隣へ行こう」
隣の部屋は入り口にいても微かに魚と鉄の匂いを感じた。
「中には入れないけど、仕事の内容はここからでもわかるだろう。この作業部屋はさっきの泥を吐かせる所とつながっていて、お腹が綺麗になった鰻を開いている。ウチは背開きするんだ。ヒレと内臓と中骨と頭を取って、骨抜きで小骨も丁寧に取るんだ」
「みんな真剣な顔をしている。凄い。おじさん、私お邪魔だわ。もういいです」
珠子が作業場を覗くのをやめると、守之が手を引いて厨房の最後の作業場の出入口へ連れて行った。扉は開けたままになっている。大分客席の方へ戻ってきた。
「わあ、いい匂い」
珠子が漂う空気を吸い込む。
「だろう」
守之は嬉しそうだ。
「ここが最後の工程でね、焼きと蒸しだ。さっきのきれいに捌いた身に串を刺して備長炭で焼くんだよ」
ここでも、みんな真剣な顔をしている。覗き込んでいる珠子には気づいていないようだ。
「白焼きにしたのを蒸してから蒲焼きに仕上げるんだ。どうだい」
「ここでお仕事してる人たちはみんな凄い集中していて驚きました。丁寧なお仕事に感動しました」
珠子が顔を上げて守之の目をじっと見た。
「珠子ちゃん、ありがとう。さあ席へ戻ろう」
二人が半個室に戻ると
「あら、あなた何泣いてるの?」
守之の顔を見て美子が驚く。
「彼女がウチの職人を…ウチの職人は、集中して丁寧な仕事をしてるって言ってくれたんだ。感動したって。頑張って職人を育ててよかった」
「あの、社長どうされました?お重をお持ちしましたが」
泣きながら立ったままの守之の後ろに重箱を乗せたお盆を持った従業員が立ちつくしている。
美子が慌てて指示を出す。
「あ、ありがとう。お、お重をこっちへお願い。あなたはちょっと向こうへ。珠子ちゃんは操さんの隣へどうぞ。厚いクッションの所ね」
美子は守之を引っ張って店の奥へ連れて行った。
テーブルに特上の鰻重と肝吸い、白焼きの皿、鰻ざく、鰻巻きが所狭しと並べられた。
珠子は満面の笑みで蓋を取った鰻重を見る。
珠子の賛辞に興奮した守之を母屋に連れて行き休ませて戻ってきた美子が、漆塗りのスプーンを珠子に渡した。
「珠子ちゃん、ウチの鰻は柔らかいからこれで召し上がれ」
スプーンを受け取った珠子は
「いただきます」
口を大きく開けて蒲焼きとタレの染みたご飯を頬張った。
「うなぎがふわふわで柔らかい!」
幸せそうな顔をした珠子に柊と美雪がお腹を支えながら大笑いした。