柊の話
「母さん、ちょっといいかな」
柊が真面目な顔で操の部屋を訪れた。
「何、なんか怖いんだけど」
柊の雰囲気に操が構える。
「まあ、あがって」
柊はソファーに腰かけた。
「ヒイラギ君こんにちは」
珠子が顔を出した。
「隣に座ってもいい?」
柊は笑顔で頷く。操が冷茶を持って柊の向かい側に座った。
「冷たいのどうぞ」
「ありがとう。いただきます」
柊が美味しそうにお茶を飲んで、ふうーっと息をつく。
「で、いつものあんたらしくない態度でどうしたの」
「あのさ、俺そろそろ身を固めようと思っている」
「うん。いいんじゃない」
「ミユキとこれからの具体的なことを色々話し合ったんだけど」
「うん」
「俺、石井の家に婿として入ってもいいかな」
「婿入りってこと?」
「そう」
「婿養子ではないのね」
「うん、婿入り。養子縁組はしない。けど名字は石井になるし、戸籍の筆頭者はミユキになる」
「ふうーん」
話を聞いた操の表情に変化はない。
「ヒイラギ君、石井柊になるの?」
珠子が質問した。
「そう」
柊が頷く。
「私は構わないけど、あんた自身それでいいのね」
操が問う。
「ああ、大分悩んだけどな」
「向こうのご両親の希望なのかしら」
「そう。ミユキの二人のお兄さんがさ、この間会えなかったけど、41歳と39歳なんだよ」
「美子さん若くして出産したのね」
「そうだな。ただその二人の兄さんたち女っ気が無くてね、このままいくと跡継ぎができないんじゃないかって親父さんが心配しちゃって」
「ふうーん。そこであんたに婿入りの相談があったわけ」
「もちろん、これからミユキのご両親が母さんに相談しに来るけど、その前に耳に入れておこうと思って」
「わかった。あんたが良いのなら私は構わないよ。婿養子だともう少し複雑な話になるけど、婿入りはざっくり言えば嫁さんの名字になるだけでしょう」
「うん」
「早く結婚して可愛い孫を見せてちょうだい。向こうのご両親もそれを望んでるんでしょ」
「ヒイラギ君、私にいとこができたんでしょ」
珠子が嬉しそうに言う。
「実は、そうなんだ。子どもができた」
恥ずかしそうに柊が頷く。
「えっぇ、なんでそれを早く言わないのよ!」
操がいつもよりオクターブ高い声をあげた。
「何週目なの」
「八週目だって」
「あんたも病院についてった?」
「ああ」
「ミユキちゃんのご両親は知ってるのね」
「お義母さんは知ってるし病院に一緒に行ってる。でもお義父さんにはまだ伝えてない。今度の検診で問題なければ言うと思う」
「まあ、何はともあれヒイラギおめでとう」
操が軽く頭を下げた。
「あ、ありがとう」
「で、今後の予定はどうなってるの」
「俺たち、子ども食堂の二階を新居に考えていて」
「あそこは石井さんの物件だったの?」
「そう、今、カシワにリフォームの図面を依頼していて、あの建物自体築浅だから、動線や使い勝手を良いようにレイアウトを考えてもらってる」
「そうか。ヒイラギはここを出ていくのね」
「うん。で、そのうちカシワの部屋に月美さんたちが越してくる予定だ」
「タカシ、ここの隣に住むの?」
珠子が嬉しそうに聞く。
「カシワはそのつもりらしい。だから家賃はしっかり徴収して大丈夫だよ」
「ヒイラギ君、家賃払ってたの?」
珠子が柊を見る。
「もちろん。カシワと折半でね」
「当然よ。ここの固定資産税、結構高いのよ」
操が大家は大変なのよとこぼした。
「そう言えば、高田さんがいた部屋さ、次の人決まったの?」
「うーん。先週二人、内見と話をさせてもらって、今週末契約するの」
「決まったんだ。良かったね」
「うーん。ただねその人、結構ヘビースモーカーらしいの」
「今時珍しいな」
「でしょう。まあiQOS?加熱式煙草だって言ってるけど」
「タマコも会ったの?」
「うん。会った。背の高いお兄さんって言うかおじさんかな。顔が怖そうだけどお話したら面白かった」
「何やってる人」
「普通の会社員」
「へえ。まあ空き部屋がなくなって良かったな」
「そうね」
柊が帰って操と珠子は昼ごはんにナポリタンを食べていた。
「ミサオのナポリタンはやっぱり美味しいね」
珠子が口の回りにケチャップを付けたままパスタを頬張る。
「本当?姫に改めて言われると凄く嬉しい」
「美味しくなる秘密があるの?」
「やっぱり仕上げのバターかな。細切りピーマンも欠かせないし、あとケチャップをよく炒めるの」
「今度作るとき、私も一緒に炒める」
「わかったわ。一緒に作ろう」
「うん」
「このアパートも、少しずつ変化していくのね」
操が感慨深そうに言った。
「変化?」
珠子は不思議そうな顔をした。
「何も変わってないように見えるけど」
「外側の形は変わらないけど、ここで暮らす人たちが変わると、私や姫の環境が変わっていくわ」
「そうかな」
「そうよ。例えばリョウ君が住んでいた時は、姫はとてもおしとやかだった」
「うん、憧れのお兄さんに良く思われたくて、自分の100%を見せなかったかも」
「今度の入居者さんに姫は会ったでしょう。リョウ君とは接し方が変わると思わない?」
「うん、確かに。今度の人──魚住さんには自分を飾らない接し方をしそう」
珠子がうんうんと頷きながら言った。
「じゃあ、ヒイラギがここを出て、タカシ君が住む事になったら」
「気さくに話すのは変わらないけど、なんか…あの…」
言いながら珠子は頬を紅くした。
「好きな気持ちが加わるでしょう」
「……うん」
素直な珠子を見て操が微笑んだ。
「そうやって、ここで暮らす私たちが少しずつ変化するの」
「そうか、それにあと何カ月かすると弟もここで暮らすんだ」
「そうね。それもこれからの暮らし方に変化が起こるわね」
操の声が優しい。
珠子は口元のケチャップをそのままに、目を閉じて少し未来の自分を想像して笑顔を見せた。