はじめての海の味(1)
その日は、短かった今年の梅雨が明けて快晴である。
珠子は自分でも驚くほど早く起きた。
「姫おはよう」
操が少しびっくりした顔をした。
「おはよう。早く目が覚めちゃった」
「わかるわ。楽しみだものね、海」
操は珠子の血色のいい柔らかなほっぺたを人差し指で軽くちょんと突いた。
「うん。今日、海の味がわかるんだよ。楽しみ!」
珠子は自分の唇をペロリと舐め回した。
「姫、あなた何か勘違いしてない?海水は凄く塩辛いの。味噌汁やシチューとは違うのよ」
「わかってるよ。アサリの砂を吐かせる時に作った塩水と同じしょっぱさなんでしょう」
「そうよ。あの時舐めたでしょう。海水はあれよりもう少し濃いの。まあ、向こうに着いたら味を確認しようね」
手に塩をなすりつけご飯を握りながら操は言った。
「顔を洗ってくる。そしたら、お手伝いするね」
珠子は洗面所へ向かった。
隣の柏と柊の部屋では孝がはしゃいでいた。
「うるさーい!」
柊が羽毛の肌掛け布団を頭までかぶり文句を言った。柊の部屋の扉が少しだけ開いて孝が覗いた。
「ヒイラギうるさくしてごめん。ゆっくり休んで」
「あと三十分もしたら起きるよ。ったく、朝のこの微睡みの時間は大切なんだぞ」
柊は力無く言った。
ごめん。孝は小さな声で謝るとケージの前でノッシーの様子をみていた柏の隣に立った。
「ヒイラギは普通に仕事だからな」
もう少し寝かしてあげるべきだったなと柏が孝に言った。
「そうだった。反省してる」
孝は素直にそう思った。
今日は週中の平日だ。柏は有給休暇を取って早めの夏休みを過ごすことにした。
柊と身重の珠子の母の鴻を残して、神波の家族と孝と彼の母の山口月美で海辺の宿へ二泊三日の旅行にこれから出発だ。
「おはよう」
柊が起きてきた。
「ヒイラギ、うるさくしてごめん」
孝が再度謝った。
「いいから、気にすんな。楽しんでこい」
柊は孝の頭を軽くポンと叩くと、その手を柏に向けて振りながら気をつけて行ってこいよと言って洗面所へ消えた。
「さ、出かけるか」
柏は自分の荷物とクーラーボックスを持った。
「おはよう」
柏と孝が操の部屋へ入っていくと支度を済ました操と珠子、孝の荷物を用意した月美が二人を待っていた。
「お母さん」
何日かぶりの月美を見て孝は駆け寄った。
「孝、少し背が伸びた?」
「そうかな」
母親にちょっと甘えている孝を見て、珠子は羨ましそうだった。
「母さん、クーラーボックスに飲み物入れといて。俺車を回してくる」
柏が外へ出ていった。操が珠子に手伝ってとキッチンへ呼んだ。
クーラーボックスを開けると
「ここに、これから渡すのを入れてくれる」
珠子に飲み物とさっき作っていたおにぎりを渡していった。
「姫、コウちゃんと一緒に行きたいよね」
操は、孝と月美を羨ましそうに見ていた珠子を気遣った。
「うーん、確かにママも一緒に海に行ければ嬉しいけど、可愛い弟のために今は我慢する。ミサオがいてくれるから全然寂しくないよ」
そう言う珠子を操はぎゅっと抱きしめた。
「みんな忘れ物はないか」
柏が後部座席の珠子と孝のジュニアシートの具合を確認しながら聞いた。
「大丈夫。カシワよろしくね。疲れたらすぐパーキングエリアに入ってね」
中間シートに座った操が横に置いたクーラーボックスからいつでも飲み物を出せるわよ、おにぎりもあるからねとみんなに言った。
柏が運転席着くと、
「途中で運転交代してもいいからね」
サイドシートの月美が柏を見た。
「うん」
柏が月美に顔を向けると後ろの操に見えないようにウインクした。
道路はそこそこ混んでいたが止まることなく走行できた。
有料道路を下りて一般道に入ると目の前に海が広がった。
「姫、タカシ君、見て。砂が白い!海の色も綺麗。この海岸だけ他とは別物ね」
操が興奮気味に後ろを向くと珠子と孝は同じ形に頭を傾かせ爆睡していた。
柏のミニバンは目的地に到着しホテルの駐車場の建物に近いスペースに駐まった。
珠子と孝を起こし、一行は車から降りた。
「茜と藍はもうすぐ到着するのかな」
ううーっと伸びをしながら柏が操に聞いた。
「茜が来られないらしいのよ。で、藍の高校の時の友だちがくるって言ってたわよ」
「ふーん」
「昨夜、藍がね少し遅れると思うって連絡してきたから……私たち先にチェックインしちゃいましょう」
荷物を降ろすとホテルのスタッフに預けて、みんなでエントランスからロビーに向かった。
「涼しい!」
「天国だあ」
操がフロントで手続きをしてる間、柏も珠子もみんなソファーでだらりと体を沈ませた。
キーを受け取った操が戻ってきた。
「さて、部屋割りをどうする?」
操が柏の隣に座って耳打ちする。
三人で泊まれるエキストラベッドを入れた少し広い部屋を用意してもらってるけど。
提案その一──私と月美さんと姫が一緒
提案その二──あんたとタカシ君と月美さんが一緒
「さて、どっちがいいの?」
「母さん、なんか性格悪いよ」
柏が困った顔をする。
隣で様子を見ていた孝が操に言った。
「おばさん、おれね、お母さんとカシワと一緒にいたい」
孝の鶴の一声で
「姫、お部屋に行きましょう」
部屋割りはすぐ決まった。
「ミサオ、海の水、いつ味見できるの?」
珠子は海水が舐めたくてうずうずしている。
「お部屋で少し休んでからね」
一時間ほど部屋でまったりした後、珠子が早く海水の味を知りたいと言うので、柏に海岸へ行ってくると伝えて部屋を出た操と珠子は廊下で藍たちとばったり会った。
「お母さん、昨夜話した高校の時からの友人のレナ」
「はじめまして。藍さんと仲良くさせてもらってる古沢礼奈です。よろしくお願いします」
お辞儀をして顔を上げるとかなりの美人さんだった。個性的ではなく万人受けする美女だ。スレンダーでボーイッシュなスタイルの藍と並んでいると、まるで恋人同士みたいに見える。
「はじめまして。藍の母の、神波操です。娘につき合ってくださってありがとう。ゆっくりくつろいでください」
礼奈に軽くお辞儀をすると、操は藍に、ちょっと浜に行ってくると伝えてエレベーターへ向かった。
珠子と下りエレベーターに乗ると、二人声を揃えて礼奈さんは藍ちゃんに気があるよねと、言った。
一階のエントランスと反対側は海岸に面している。外に出ると、テラスがあり更に進むと砂浜に下りるためのコンクリート製の階段があった。
二人はそこから広がった白い砂浜をパライバトルマリンのような色をした波打ち際へ歩いていった。
「綺麗な海ね」
操がうっとりと穏やかな波を見つめる。
珠子は頭の中で、塩水、塩水とはしゃいだ。