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ある夏の日の操

朝、操はベッドから起きると最初に全ての窓を開ける。

次に寝室のローチェストの上に置かれている小さな漆塗りの六十センチ角ほどの箱の前に立つ。それには観音開きの扉がある。それを開けると、箱の奥にはいくつかの位牌並んでいる。その真ん中に小振りだが黒檀の比較的新しい位牌が黒光りしている。それは亡くなってから間もなく九年になる操の夫のものだ。その横には、やはりまだ新しい二つの位牌が並んでいる。操の父と継母のものである。

その小さな箱はモダンタイプの仏壇だ。操は水とお茶を供えた後、小さなロウソクに火を灯しショートサイズのインセンスをつける。線香ではなく、お香だ。線香もお香もあまり変わりがないのだが、操は普通の線香の匂いが苦手だ。なので、煙が少ない柑橘系のルームフレグランス用インセンスを立てて、リンを鳴らし故人に手を合わせる。「あなた、今日も大好きよ」「お父さんお母さん、おはようございます」声に出さず夫の神波(じん)と操の両親に伝える。

寝室を出てキッチンの電気ポットでお湯を沸かし、お気に入りの銘柄のインスタントコーヒーをブラックで飲む。普段日本茶派の操だが起きがけの一杯はコーヒーなのだ。

それからアパートの通路の掃除をする。それが終わると朝食の準備をして、ずっと見ていたい可愛い寝顔の珠子を起こす。

これが操の毎朝のルーティンワークだ。

今朝もいつも通り動いた後、珠子と食卓で向かい合いピザトーストを頬張っていた。


「ミサオ、今日タカシが来るんだよね」


珠子が口の端にピザソースをつけて聞いてきた。


「姫、右の口のところにソースがついてる。

タカシ君、終業式が終わったらそのままこっちに来るみたい」


「じゃあ、フラワ・ランドのおみやげ渡せるね」


珠子はテーブルを拭く濡れ布巾で口を拭いた。


「明日から夏休みなのねえ。そのせいかわからないけど、茜と藍の仕事が結構忙しくなるみたいよ。それで月美さんもずっとヘルプに入るんですって。夜は雑貨店から頼まれた小物作りで忙しいから、タカシ君をカシワとヒイラギで預かるんだって」


「ふーん。でも昼間は二人ともいないよ」


「そう。結局あいつらが仕事から戻るまでタカシ君はここにいてもらうわ」


べつにこっちで夜も預かったっていいんだけどね、と操は笑った。


「じゃあ、私がタカシの夏休みの宿題を手伝ってあげよう」


珠子は偉そうに腕を組んだ。




昼前に、孝はたくさんの荷物を持って操のところにやって来た。


「おばさん、こんにちは。お世話になります」


「おや、随分かしこまったことを言うわね。あなたのおばあちゃん()だと思って、いつも通り気楽にしてちょうだい」


孝は嬉しそうに頷いた。


「タマコは」


「奥にいるわよ。さあ、あがって。凄い荷物ね、預かるわ」


習字の道具や体操着などを操が受け取った。

孝が奥にいくと珠子はソファーに座ってこちらを見ていた。


「タカシ、いらっしゃい」


「おう」


孝は珠子の隣に座った。


「おみやげ」


珠子が小さくてカラフルな袋を孝に渡した。


「ありがとう」


袋を開けると、フラワ・ランドのキャラクターがアルファベットのTを抱えているキーホルダーだった。


「タカシのTだよ。私とお揃い」


「おれん家の鍵につけるよ。そう言えば、あいつらに会ったんだって?」


「ん?」


「フラワ・ランドのフードコートでさ、クラスメイトの女子三人と」


「ああ、うん。声をかけられた」


「何を言われたんだ?」


「この間、タカシに買い物をつき合ってもらった時、手を繋いでいたでしょう」


「うん」


「それで、タカシとの関係を聞かれたの」


「面倒くさい奴らだな。それでおまえは何て答えたんだ?」


「タカシのファンだって言った。そしたら、私たちと同じなんだって納得してどこかに行っちゃった」


「そうか」


「うん。タカシってモテるんだね。本当はね、タカシのカノジョだよって言おうかと思ったんだけど」


珠子がさらっと言うと孝は顔を紅くしながら小さな声で


「そう言って欲しかったな」

と言った。


そんな二人のやり取りを見ていた操がくすっと笑いながら


「そろそろお昼にしましょう」


三人はベーコンのクリームパスタとブロッコリーとゆで卵のサラダをを食べながら、


「タカシ君、月美さんて料理上手だよね」


操が言った。


「うん。おかあさんのごはんは美味しいよ。でも、おばさんのこのスパゲティーも凄く美味しい」


孝がパスタを口いっぱい頬張る。


「この間ね、タカシのママが作ったお豆と挽き肉とトマトの煮物がとってもおいしかったよ」


珠子もほっぺたが口の中のブロッコリーで膨らんだ状態で言う。


「月美さんに料理を習おうかな」


操が孝を見る。


「おかあさんに言っておくよ」


相変わらずパスタを頬張ったまま孝が言った。


「お願いします」


操が孝にちょこんとお辞儀をした。


「ねえミサオ」


珠子が呼びかけた。


「どうしたの、姫」


「海にいつ行くの?」


それを聞いた孝が声をあげる。


「海!おばさん、いつ行くの?おれも行きたい」


「えーっと…」


操がしどろもどろで返事に困っていると、


「おばさん、カシワがね、おれが夏休みの間に海に連れていってくれるって言ってたよ」


孝が操に向かって親指を立てた。


「海!しょっぱい水!触りたい」


珠子が興奮する。


「タマコ、海は綺麗だし楽しいけど、気をつけないと怖いところなんだぞ」


孝が珠子の顔を見つめて真面目な声で言った。


「そうなの?」


「波で足が踏ん張れないし、変な波に持っていかれると浜辺に戻れなくなるからな」


「タカシ君、海にはよく行ってたのかしら。楽しいだけじゃないことを知ってるのね」


操が感心する。


「おれがタマコぐらいの時、海で溺れたんだ。そのとき本当に怖かった」


孝の話を聞いて、海は綺麗で楽しいけど、それだけじゃないんだなと珠子は思った。


「じゃあさ、私が海に持っていかれないように、タカシ、手を繋いでいてくれる」


「わかった」




昼食を終えて、珠子と孝はお腹に大きなバスタオルをかけて仲良く並んで昼寝をしている。

操は二人の無邪気な寝顔を見て思わず目尻を下げた。


──あなた──


心の中で、もうここにはいない操の夫・仁に話しかけた。


──あなたと私の可愛い孫娘は元気に成長してますよ──


珠子と孝の寝顔を見ながら、操はティッシュで目頭を押さえた。


──ほら見て。桜色のほっぺた。あなたにも姫を抱かせてあげたかった──

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