ある雨の日
今日は早朝から雨が降っている。
珠子は窓の外を眺めていた。
庭は鮮やかな草の色をした芝生で覆われ、ここから右に目を向けるとほんの少しだけ花壇の一角がかろうじて見える。
この部屋の隣の隣の隣、104号室の沢野絹が自分の部屋の前に花壇を作り四季折々の花を植えて育てているのだ。
絹は御年88歳の元気なお婆ちゃんだが、喋りも足腰もしっかりしていて、花壇の水やりも雑草取りもテキパキとこなしている。
今は、金赤色と青紫色のサルビアと、オレンジ色と黄色のマリーゴールドが空からの水を浴びながら鮮やかな花の色を際立たせている。
「姫、窓に顔をつけないで。ガラスにほっぺたの皮脂が着いちゃうよ」
珠子は慌てて顔を窓から離したが、頬のくっ付いていたところが白く曇っていた。
「あ、ごめんなさい」
操が窓拭き用の雑巾で白くなった場所を拭き取りながら、
「何を見てたの?」
珠子が見ていた方向を向いてみた。
「絹さんの花壇」
珠子が答える。
「雨にあたると色が濃くなったように見えるよね」
操は庭に広がっている芝生を眺めた。
「ミサオ、リョウ君はもう向こうに行っちゃったのかな」
珠子は寂しそうな顔をした。
五月までこのアパートの二階に住んでいた珠子の憧れの人、高田涼は六月の中旬ごろオランダへ留学すると言っていた。間もなく六月も終わろうとしている今、彼はもう日本にいないのであろう。
「そうね。ここを出るとき、そう言ってたね」
「雨が降ると悲しいことや寂しいことばかり頭に浮かんじゃうの。何でかな」
ミサオはソファーに座ると
「姫、おいで」
自分の膝の上に珠子を乗せた。
「雨だと晴れている時より暗いじゃない」
「うん」
「暗いと幸せホルモンがあまり作られないんだって」
「あ、お日さまが出ていると、なんかわくわくするかも」
「でしょう。でもね、雨は沢野さんのお花や名取さんの野菜が元気に育つために必要なのよ」
「そうか。私も喉が渇いたらお水を飲むよね。お花もお野菜もお水が必要なんだよね」
珠子が頷く。
「そうそう。それに雨の音を聞くとリラックスできるらしいわ」
「そうなの?」
「大雨は違うかも知れないけど、しとしと降る雨の音は悪くないかもね。それより、もっと気持ちが明るくなって元気になる方法があるのよ」
「なあに?」
珠子は見上げて操と目を合わせた。
「それはね、ごはんを食べるの。さ、朝ごはん食べよう」
「うん」
キッチンの一角に四脚の倚子とテーブルの食卓があり、珠子はそこの定位置に座った。
操がガスレンジに向かって食事の用意をしている。
「ミサオ、この匂いはフレンチトーストかな」
珠子が鼻をくんくんさせる。
「当たり」
操は珠子用に焼いた一口サイズのフレンチトーストをテーブルに置いた。手作りのブルーベリージャムがかかっている。ツナサラダとキウイの輪切りも置いていく。
「ミサオ、今日は牛乳いらない」
珠子がフレンチトーストの匂いを嗅ぎながら言った。
「ほうじ茶飲む?」
「うん。飲む」
操が湯呑みにお茶を注ぐと
「「いただきます」」
二人は食べ始めた。
「このジャム美味しいね」
珠子はフレンチトーストを満足気に頬張る。
「果物が美味しいといいジャムになるわね」
操も笑顔になる。
「姫、気持ち明るくなった?」
「あれ、私元気なかったんだっけ?」
「ほら、ごはんを食べたら元気になった」
操が頬杖をついて珠子を見た。
「そう言えば、この間ママとカシワ君たちと行った焼き肉美味しかったね」
珠子はその時のみんなでわいわい賑やかな食事が楽しかったなあと思った。
「あれは、みんな食べたわねぇ」
操は苦笑いを浮かべた。会計金額が想像以上で現金派の操が久しぶりにカード決済したのだ。
「ママが美味しそうにお肉を食べてて、私嬉しかった」
珠子は、鴻が幸せそうにお肉を頬張っていた姿を思い出していた。
「コウちゃんのお腹の中で、姫の弟くんもお腹いっぱいになったかな」
「うん。元気いっぱいの赤ちゃんになるといいな」
「カシワたちも、殆ど家族の食卓って感じだったわね」
操は、孝の食べこぼしを柏が拭いて、柏の口の端のタレを月美が拭いていたようすを思い出していた。
「だけど今度はヒイラギと茜と藍を連れていかないとね。あいつ拗ねちゃって、わざわざ電話してきたのよ」
「ヒイラギ君が?」
「そう。食べ物の恨みは恐ろしいから、姫また行こうね」
珠子は心の中でガッツポーズをした。
「姫、頭の中でニヤけてるでしょう」
やっぱりばれちゃった。えへっと、珠子は舌を出した。
「でも、いつもの元気な姫に戻って良かった」
操はほっとした。