鴻のおなか
珠子の母、神波鴻はうっと小さなうめき声をあげた。ふくらはぎがつったのだ。
「痛たたっ」
倚子に腰かけて突っ張った足を擦った。擦るために前屈みになるのもしんどくなってきた。
妊娠して六カ月、初期の悪阻や精神の不安定は落ち着いて、できるだけ体を動かすようにしている。それでも体型の変化が行動を緩慢にする。
インターホンが鳴り操の声がした。彼女は、自分の息子で鴻の夫の源がずっと留守なので、一人でいる嫁の鴻を気にかけて三日に一度ようすを見に来ている。
「コウちゃん、おはよう」
鴻は倚子から立ち上がり軽く足を引きずって玄関の扉を開けた。
「おはようございます。出るのが遅くなってすみません」
「そんなの気にしちゃだめよ。でーんと構えていなさいな。ちょっとあがるわよ」
器を二つ持った操がサンダルをぬいで奥へぐいぐい入っていった。
「ママ、おはよう」
少し遅れて珠子が顔を出した。
「珠子」
鴻はゆっくり膝を床に着けて珠子を抱きしめた。
「おはよう。さ、あがって」
鴻はゆっくり立ち上がって珠子の手を引いた。
「コウちゃん体調はどうなの?」
操はキッチンの調理台に器を置いた。
「大分楽になりましたけど、体重が増えて脚に来てます」
「結構、お腹が目立ってきたわね」
「あ、今も動きました」
鴻が言うと、彼女の大きくなってきたお腹に珠子が耳をつけた。
「珠子、動いてるかな?」
鴻が珠子の頭を撫でる。珠子はお腹にくっ付いたまま答えた。
「うん。凄く元気に動いてる」
「コウちゃん、昨日姫がこれををもらったの。完熟だから甘いのよ。それからジャムを作ったから食べて」
操が二つのうち一つの器からブルーベリーを一粒摘まむと
「口に入れていい?」
「はい、いただきます」
鴻に食べさせた。
「ん、甘ーい」
「でしょう。冷蔵庫に入れておくから後で食べて。もう一つの器がジャムなんだけど、これもいい味よ」
操が二つの器を冷蔵庫に入れる。
珠子は先ほどからずっと鴻のお腹にくっ付いたままだ。
「珠子、弟はあなたに何か言っているの?」
「ん、あのね、早くみんなに会いたいって。もう少し待ってねって言っておいたよ。秋になったら会おうねって伝えた。それから」
「それから?」
「美味しいお肉が食べたいって……ママも我慢しないでって」
「?」
その話に操が、鴻と目線を下げて珠子を交互に何度も繰り返して見た。
「あのぅ」
鴻が恥ずかしそうに俯いた。珠子と目が合って更に恥ずかしくなって目を伏せた。
「昨日、ネットスーパーで注文をしたんですけど、肉のコーナーでステーキ用のお肉フェアをやっていたんです。和牛のシャトーブリアンが載っていて、凄く食べたくなっちゃって、ポチッとする直前に値段を確認したら驚いてやめました。で、結局ポークステーキと言うかほぼ生姜焼きを食べました」
「それ、わかるわー」
操が頷いた。
「きっと弟くんも、その…ぶりあん?が食べたかったんだよ」
珠子が鴻のお腹を優しく撫でた。
「コウちゃん、お肉食べに行こうか」
操が言った。
「えっ」
「シャトーブリアンとまではいかないけど、焼き肉で良ければ安くてそこそこいいお肉を食べさせる店があるのよ」
「いいんですか?」
いつになく鴻の声が明るい。
「みんなで外食できるの嬉しいです。たまに外で食事したいなって思っていたので」
「そうだ。コウちゃんが嫌でなければ、カシワを誘ってもいいかな」
「ええ」
多少人見知りな鴻に操が確認をすると柏にメッセージを送った。
「あの子に車を出させればいいわね」
「私の車でも大丈夫ですよ。チャイルドシートも着けてますし」
「カシワを誘うと、多分あと二人参加者が増えるから、あの子の大きい車でいいわ」
そして、柏からメッセージの返事がきた。
「明日なら早めに帰れそうだって。明日の晩ごはんは焼き肉ね」
それを聞いて珠子が鴻のお腹に頬をつけた。
「明日の夜、一緒に美味しいお肉を食べようね」