珠子、雑草を抜く
昨日の雨で大気の埃っぽさは洗い流され、『ハイツ一ツ谷』の南側の庭は薫風香っている。気持ちのいい午前中である。
神波珠子は黄色い長靴を履いて手には子供用の軍手をつけていた。
「珠子ちゃん、ここ、ここ、それからここ、この草が雑草なんだよ。今、土が湿って柔らかくなってるから、こうやってゆっくり真上に雑草を引っ張って」
108号室の住人、名取丈が珠子の目の前で雑草を抜いてみせた。
ここは名取が自分の部屋の前の庭に二坪ほど耕して作った小さな畑だ。除草剤を使いたくない彼は、まめに雑草取りをしている。
一昨日、友人たちと二泊三日の旅行から帰ってきて、昨日は久しぶりに一日中雨が降り、今朝畑を見たら驚くほど雑草が育っていた。
「ナトリさん、これは野菜じゃないの?」
珠子は放射状に葉を伸ばした立派な草を指差した。
「雑草だから抜いていいよ。葉っぱと土の間に両手を差し込んで真上に引っ張り上げておくれ。ちょっと力がいるかな」
珠子は小さな手を雑草の下に入れて葉っぱがまとまっている真ん中を真上に引き上げた。
「うーん、抜けないっ」
「しゃがんでたちあがりながら引っ張ってみな」
丈が言いながら、やって見せた。珠子も真似をする。
「ううー、わあ抜けた!」
ずるずると雑草の根が姿を現した。
「上手い上手い。珠子ちゃんよくやった」
「ふうっ、雑草取りって大変なんだ」
珠子はいくらも取っていないのに疲れてしまった。
「そう、大きくなっちゃうと根が張って抜くのが大変だ。だからいつもは草が小さいうちに取るようにしてるんだけどな」
「でもナトリさん、三日ぐらい前に私庭に出てノッシーと、ああノッシーってカシワ君とヒイラギ君が飼ってるリクガメなんだけど、こっちの方まで散歩したとき、この畑に今抜いたのと同じ草なんて生えてたかな?」
「この雑草ってのはあっという間に大きくなるんだよ。大切に育ててる野菜たちは育つまで時間がかかるのにな」
頑張って一時間ほど雑草と格闘していると、
「名取さん、姫、ちょっと休憩して」
操が冷えたペットボトルの麦茶を持ってきた。
「神波さん、すみませんね」
名取は美味しそうに麦茶を喉に流し込む。
「名取さんは本当にお元気ね。膝や腰が痛いことないんですか?」
「お陰様で今のところ何でもないねえ」
「畑仕事は健康にいいんですかね」
「土いじりもストレス解消できていいけど、やっぱり自分のペースで動くことが大事かもね」
そうなのよね、と思いながら操はそっと自分の膝を擦った。最近階段の上り下りで膝の老化を感じるのだ。
「珠子ちゃん、大分雑草がなくなったから、ご苦労さんでした。お礼に、この辺りのが収穫してよさそうだから持っていきな。今、切るから待って」
名取は鍬でチンゲン菜の根元をさくっと刈り、小松菜の株をぐいっと引き抜いた。
「今採れるのはこれぐらいかな」
「ありがとうございます。いただきます」
珠子と操は名取から受け取った葉物野菜を両腕に抱えて自分たちの部屋へ戻った。
「姫、いただいた小松菜でベーコン炒めしたら食べる?」
「食べる食べる」
二人は昼食にたまごサンドと小松菜のベーコン炒めをお腹がいっぱい食べた。
「ミサオ、おいしくて食べ過ぎた」
珠子がTシャツをめくってお腹を見せた。
「姫!お腹がぽこっと出てる」
「うん。かなりお腹が苦しいかも。ミサオ、お昼寝してもいいかな」
「畑の手伝いもしたことだし少し休みなさい」
「はーい」
片付けを終わらせて操が寝室に行くと、ベッドで珠子が大の字になって気持ち良さそうに眠っていた。
「姫の寝顔はまるで天使ね」
操は人差し指で珠子のふっくらした頬をつんと突くと、優しく微笑んだ。