珠子とカフェとワンコ(1)
葉桜の並木道を祖母と孫は手を繋いでいつもの商店街へと向かっている。
「姫、今日は第三火曜日だから殆どのお店がお休みだよ。人通りが先週来た時より少ないでしょう」
操が珠子を見ながら言った。
商店街のすぐ傍までやって来た二人はいつもより静かな通りを歩いていく。入り口の吉田精肉店も今日はシャッターが締まってコロッケやから揚げを買うことができない。
「そういえば、土曜日に行った潮干狩りで採ったアサリ、おいしかったね。夜にカシワ君とヒイラギ君がお酒とアサリの味噌汁を交互に飲んで、お腹がちゃぽんちゃぽんにならなかったのかな」
三日前の土曜日、珠子・操・柏と柏の小さな友人の山口孝の四人で潮干狩りに出かけたのだ。大量のアサリを採ることができたが砂抜きに時間がかかって、味わえたのは夜遅くになってしまった。その時の柏と柊の二人が兄弟仲良く日本酒を飲んでいる姿が、珠子の目に楽しそうに映っていたのだろう。
「次の日の朝、食べたアサリのご飯とアサリのシチューもおいしかったぁ」
「ねえ姫、続けてアサリだらけの料理だと、しばらく貝を食べるの嫌にならないの」
操が聞くと、珠子は首を横に振った。
「ジャリって一回もならなかったから嫌じゃない。しっかり砂抜きは大事だよね。とにかく味が好きだよ。それにしても、酔っぱらったカシワ君とヒイラギ君が面白かったな」
実は貝類が苦手な操は、姫の味覚は自分より大人なのかも知れないと思った。
「それで、商店街のどこの店に行きたいの?」
商店街の通りの中ほどで操が聞いた。
その時、珠子が足をぴたっと止めた。
「ここ」
「ここ、最近できたカフェなのね。って言うか、いつ開店したの?って言うか、やっているの?」
「一週間前にここを通った時──公園でブランコをした時ね、ここ、お店が開店する気配がなかったでしょう」
珠子が一週間前と変わってない店構えを見ながら言った。
「でも、今は開いてるんだよ」
前の店をそのまま居抜きで始めたのだろうか。上部の看板は、前に営業していた店名の板を裏向きにしたままだ。
扉に店名のような文字を焼印した木製のプレートがぶら下がっている。ただ、その文字はデザイン化し過ぎたせいか、焼き印に失敗したせいなのか、とにかく何と記されているか読めない。
「ここね、前にやっていたのは怪しげな海外の民芸品を売っていた店らしいのよね。強いお香の匂いが広範囲に広がって周りの食材を売っているお店が抗議していたわね。私は一度も入ったことなかったけど」
操は一時期この商店街にそぐわない匂いで閉口したのを思い出していた。
「ねえ姫、本当に入るの?」
「うん。なんかね誘われているの」
二人は扉を押して入った。
前の店の中がどんな感じだったのかは知らないが壁の汚れや傷から、内装はそのままなのがわかった。しかし、嫌な香料の匂いは無く、店内はコーヒーのいい香りが漂っていた。
そこは、六坪ほどのスペースに小ぶりな二人用のテーブルセットが三つと、壁に沿って置かれたカウンターテーブルにスツールが六脚あるだけ、あとは一メートルぐらいの観葉植物の鉢が一つ、高そうな上位モデルと思われる空気清浄機が一台、そして一匹の小さな犬が二人を迎えてくれた。
「可愛いね」
珠子がしゃがむと犬が飛び跳ねるように走り寄った。一見大きめのトイプードルのようだが毛色がグレーであまり見たことのない犬種だ。
「いらっしゃいませ」
三十代と思われる少しふっくらとした女性が水の入ったタンブラーをトレイに乗せて出てきた。
「お好きな席にどうぞ」
操は二人用のテーブル席に座って珠子を呼んだ。
「姫」
珠子が倚子に座ろうとすると、グレーの巻き毛の犬が後からついてきて足元に伏せた。
「このコ、お嬢さんが好きなのね」
「おすすめは何ですか」
操が聞いた。
「今日はコロンビアブレンドをおすすめします。酸味が少なめで香りが深いんですけど後味はすっきりしています」
「じゃあ私はそれを。姫は」
「プリンアラモードお願いします」
「かしこまりました。プリンおいで」
店の女の人が言うと珠子の足元の犬はその人についていった。
「あの人のワンコかな」
珠子は姿が見えなくなった犬を名残惜しそうに店の奥を見つめた。店内は80年代のブリティッシュロックが音量低めに流れている。客は操たちを含めて五人。午後二時のカフェにしては空いている。
「おまたせしました。コロンビアブレンドとプリンアラモードです。ごゆっくりどうぞ」
シンプルなカップからいい香りが漂った。
「ミサオ、プリンとってもおいしい」
珠子が笑顔でプリンを食べていると、先ほどの巻き毛の犬が珠子の足元に走り寄った。その後を店の人が追いかけてきた。
「お寛ぎのところすみません」
「構いませんよ。あの、あなたのお名前を伺っていいですか」
操が聞いた。
「はい。江口カナと申します。このコは私の相棒のプリンです」
「可愛い名前ね。私は、神波操です。彼女は珠子。私の孫です」
「神波さん、もしかしてご家族で茜さん藍さんという方…」
「ああ、茜も藍も私の娘です」
操は少し驚いた顔をした。
「私の親戚が四丁目におりまして、茜さん藍さんに家事代行をお願いしているって聞いていたものですから。このプリンはその親戚が飼っているコの子どもなんです」
「カナさん、プリンちゃんはプードルですか?」
珠子がお座りしているプリンの頭を撫でながら聞いた。
「ベドリントンテリアっていう犬種なんですよ」
「かわいいです。で、こっちのプリンはとてもおいしいです」
「カナさん、このコーヒーもとても美味しいわ」
操は気持ちを込めて言った。
そして、声を潜めて話を続けた。
「カナさん、このお店、もっとアピールした方がいいと思うんだけど。コーヒーもプリンも美味しいし、こんなに可愛い看板犬も迎えてくれるんだから。せめて入り口がもう少し入りやすくなると良いかもね。そうだ、ここの店名は何て言うの?」
「『ぶるうすたあ』です」
「そう。扉のプレートの文字が読めなかったの。ごめんなさいね。私、お節介だからうるさいことを言ってしまって」
「いえ、資本が無いのでできる範囲でやっていこうと思いまして」
「堅実な経営は大変だけど大事なことね。私はSNSをやらないから、リアル口コミで応援するくらいしかできないけど。とりあえず扉の店名プレートは考えた方がいいわね。あ、カウンターのお客さんお帰りみたい」
カナはお辞儀をしてレジに向かった。
「姫、やっぱり私、お節介かな」
「そんなことないよ。カナさん真面目な人だと思うよ。だから、私このお店が気になったの」
「いつから?」
「先週公園に行くとき、ここの前を通ったでしょう。その時カナさん、ここで作業していたんだと思うな」
レジ応対が終わってカナが戻ってきた。
「カナさん何かテイクアウトできるものあるの?」
「フルーツサンドがあります。今あるのはキウイのだけですけど」
「四つ持ち帰れるかしら」
「はい、大丈夫です。珠子ちゃん、プリンが離れなくて邪魔でしょ。このコ、人見知りなんだけどあなたのことが好きみたい」
珠子にべったりくっ付いているグレーのテリアを見てカナが恐縮した。
「プリン、かわいい」
珠子はプリンの頭に唇をつけて何か話した。端から見ていたら軽くキスをしたように見えたかも知れないが。
テイクアウトの包みを受け取り、会計を済ませると、二人は店を出て商店街を後にした。
アパートに戻ると、ちょうど茜が仕事を終えて自分の部屋に入ろうとしていた。
「茜!」
操が大きな声で呼び止めた。
「あ、お母さん。ちょっと待ってて」
茜は一度部屋に入りすぐ出てきた。手にボウルを持っていた。
「タマコちゃん、こんにちは。お母さん、アサリごちそうさま」
操はボウルを受け取った。
「茜、この後時間ある?」
「ごめん、この後次のお宅に行かなくちゃ」
「足止めさせて、私こそごめんね。一つだけ、四丁目の江口さんって今でも仕事をさせてもらってる?」
「うん。明日伺う予定になってる」
「江口さんのことで、いや、江口さんの親戚の話なんだけど」
「江口さんは藍の担当だから、今夜そっちに行くように伝えとくわ」
「助かる。よろしくね。いってらっしゃい」
「はい」
茜は階段を上って自分の部屋に入った。
操と珠子も部屋に戻りソファーで寛いだ。
「姫、プリンに何か話をしたでしょう」
操が珠子の目をじっと見た。
「ばれちゃった」
珠子がくすっと笑った。
「また来るね。私とプリンは友だちだよって言ったの」
「もっと何かプリンに知恵をつけたんじゃないの?」
「私、策士じゃないよ」
「どこでそんな言葉覚えたの?」
操の問いに珠子はうふふと笑った。