珠子の涙
「あー終わったぁ」
操は首をぐるぐる回した。
年に一度の苦行が終わったのだ。気持ち的に草臥れただけで操自身はほぼ仕事をしていないのだが…つまり確定申告が終わったのだ。しかも、操の実家がずっと頼んでいる税理士に丸投げなので、彼女がすることと言ったら領収書をきちんと取っておくぐらいなのに、それさえもアバウトな性格のせいで締め切りぎりぎりになってしまった。
「ミサオ、お疲れさまでした。特に何かしているところは見てないけど」
珠子はとりあえず声をかけた。
「まあ、そうだけどね。気持ち的に落ち着かなくてね。本当、安西先生様々よ」
安西先生こと安西和夫は、操の父・一ツ谷太朗と長い付き合いの税理士事務所の二代目で、操の相続やこのアパートの経営相談を引き受けている人物だ。
今日は、手続きの終了報告のためここを訪れ、先ほど帰ったのだ。帰り際に、本気とも冗談ともつかないことを珠子に言った。
「珠子さん、大きくなったら我が社においで。君は将来が楽しみな人材だ」
「ねえ、ミサオ」
昼ごはんを食べながら、珠子が操を見る。
「なあに」
「さっきテレビでシヨヒガリをやっていた」
「ん?シヨヒガリ?ああ、潮干狩りね。そろそろそんなシーズンなのね」
珠子が目の前の味噌汁の具を箸でじゃらっと動かした。
「これが採れるんだよね」
「ちょっと違うよ。それはシジミ。淡水や汽水の湖で採れるの。潮干狩りはアサリね。その貝より大きいの」
「アサリは海にいるの?」
「そうよ。砂浜が遠くまで広がった海で採れるの。春がシーズンだから、そろそろね」
「ふーん。この近くに海はあるの?」
珠子は潮干狩りにかなり興味を持ったようだ。
「海に行くには、ここから車で二時間かかるわね。電車だと乗り継いで二時間半ってところかな」
「そうか、海って遠いんだね」
「カシワかヒイラギに聞いてみようか」
「うん。アサリ採ってみたいし、海も見たい。もし、行けたらママも誘う。最近元気ないみたいだから」
珠子の母、鴻はこのところ体の怠さと吐き気でほとんど動けずにいた。
その理由を大分前から珠子は感じていた。
知るのではなく感じる、これが珠子の能力で、鴻本人より先にわかっていた。鴻が妊娠したことを。もうすぐ二カ月半になる。最近、操は毎日鴻の部屋を訪れ、匂いの少ない食材を使った口当たりのいい食事を届けている。珠子もついて行きたかったが、鴻が以前ほどではないけれど珠子を恐れているので、我慢した。でも、鴻に伝えたいことがある。伝えれば絶対、鴻の精神衛生上いいはずなのだ。
「ミサオ、ママの具合はどう?」
「届けた食事にほとんど手をつけてないわ。これじゃ体がもたない」
「ねえ、私、少しだけママとお話してもいいかな」
「構わないけど、今のコウちゃんは精神的に不安定で、姫を傷つけるようなことを言うかも知れないよ」
「大丈夫。ママは私のことを好きなのわかっているから」
操は珠子の小さな体を抱きしめるた。
「わかった。これから行きましょ」
部屋を出た二人は階段を上がって真上の鴻の部屋を訪れた。防犯のため扉に鍵がかかっているが、大家である操は、鴻に声をかけてからマスターキーで開錠した。
「コウちゃん、入るよ」
そう言いながらベッドルームに向かった。
掛け布団で頭まで覆った鴻がベッドに横たわっていた。
「コウちゃん、姫がねどうしても伝えたいことがあるんだって。ちょっといいかしら」
鴻は動かず布団に潜ったままじっとしていた。
「ママ」
珠子が鴻の枕元に近づいた。
「ママ、そのまま私の話を聞いてね。ママが私を怖がっているのは、私がいろいろ感じ取ってしまうからでしょう。今回も確かに私は感じたの、ママのお腹のこと。お正月に大島かの子さんが謝りに来たとき、ママの傍にいた私はママのお腹に私の弟がいるのがわかったんだよ」
「男の子?」
布団の中からくぐもった声が聞こえた。
「そう、ママのお腹で男の子が育っているの。そしてこれから一番大事なことを話すね。私の弟は私みたいな変な力を持ってないから。普通の男の子だよ。だから安心して」
珠子の声が少し震えている。
「私とは違うから」
ずずっと鼻をすすり
「だからママ、ちゃんと栄養をとってね」
俯いたまま珠子は鴻の部屋を出て行った。
鴻がそろりと起き上がった。操が傍に寄り添う。
「珠子」
鴻が弱々しい声を出した。
「姫は出て行ったわ。コウちゃん、急に起きあがると目が回ってしまう」
操が鴻の顔を見る。
「すみません」
「コウちゃんは謝らなくていいのよ。あなたが不安な気持ちでいるのを姫はわかっているし、あなたがあの子のことを愛しているのは伝わっているわ。姫の、珠子の力は私の血筋のせいなの。そのせいであなたを苦しめてしまってごめんなさい。あの子の言うとおり、コウちゃんのお腹の中で育っているこの子は、普通の子どもなのよ。安心して。後で食事を持ってくるから少しでも食べてね」
「お義母さん、珠子はこの子を男の子だと言ったんですけど」
鴻が下腹を押さえながら言った。
「姫が言ってるのだからそうなのでしょうね」
操が微笑んだ。
「お義母さん、すみませんが珠子の傍にいてあげてください。私はいつもあの子を傷つけてしまう」
「大丈夫よ。姫はちゃんとわかっている。この間も私に言ったの。弟ができるの凄く楽しみって。だからあの子のためにも元気な赤ちゃんを産んでね」
操が自分の部屋に戻ると、珠子はソファーに座って図書館から借りてきた絵本を広げていた。操は黙って珠子の隣に腰掛けた。
「ミサオ見て。くまさんが海で貝を拾ってる」
「くまさん楽しそうね」
「私も海に行ってみたいな」
「そうだね。カシワたちに車を出してくれるか聞いてみようね」
「うん。ねえミサオ、普通の子どもじゃないって、ちょっと辛いね」
「姫は普通の女の子だよ」
操の言葉を聞いて、珠子は操にぴたりとくっ付くと静かに涙をこぼした。操は優しく珠子の頭を撫でた。