表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/240

珠子の失恋(2)

このところ神波珠子4歳は、ひどく落ち込んでいる。

ふうっ。

ため息しか出ない。

食欲もなく、そのことが彼女の祖母である神波操を悩ませた。


「姫、お願いだから食事をして」


「いらない。食べたくないの」


「姫の体は小さいから、食事を抜くと弱ってしまうわ。牛乳か豆乳かアーモンドミルクのどれか飲んでくれないかな」


しかし彼女が飲んだのは、小振りなグラス一杯の麦茶だけだった。


「姫、プリンあるわよ」


「いらない」


「お願いだから食べてちょうだい」


「ミサオ、心配かけてごめんなさい。でも本当に食べられない」


その時、南側の窓をコンコンと叩く音がした。見ると柏がノッシーを片手に持って立っていた。鍵を解除して窓を開けた。


「おはよう。タマコ、外でノッシーを散歩させるの付き合ってくれないかな」


柏はノッシーを両手で持って顔を珠子に向けると、ファルセットの高い声を出した。


「タマコ、ボクト サンポシヨ」


「ほら、ノッシーが誘ってる。暖かい格好をして芝生で散歩付き合ってよ」


「うん」


珠子はキルトのジャケットを着ると玄関から靴を持ってきて窓から庭に出た。


「姫待って。手袋とマフラーもして」


操が珠子に手渡した。


「ありがとう」


柏とノッシーと珠子は陽当たりの良い芝生へ移動した。そこで小さなリクガメを放す。


「タマコ、ノッシーを見失わないように見ていてくれ」


「うん」


「日向は結構暖かいな」


「うん」


「おまえ、元気ないな」


「うん」


「タマコ、涼が好きか?」


「うん」


「おまえ、ませてんな」


「好きな気持ちに年齢は関係ないの」


「言うねぇ。でも俺は、好きだって思うのは悪くないと思うよ」


柏は優しく珠子に笑いかけた。


「すぐに外国に行っちゃうわけじゃないんだろう」


「うん」


「じゃあ、タマコなりの方法でおまえの気持ちを伝えろよ。ただし、シツコイ・ウザイは迷惑になるから気を付けろ」


柏が声を潜めて言うと、くすっと珠子が笑った。


「カシワ君、ありがとう」


「少し元気になったか」


「うん、ちょっぴりね。あっ、ノッシーがウンチした」


柏はビニール袋を手に、リクガメの落とした小さな塊を拾った。


「こいつの散歩が終わったら、ちゃんと朝メシ食べるんだぞ」


「……わかった」


ノッシーの散歩が終わり、珠子は操の待つ部屋へ戻った。

サッシを開けて部屋に入ってきた珠子は靴を元の場所に置いて、


「ミサオ、わがままな態度をとってごめんなさい」


キッチンで小さな鍋を火にかけていた祖母に謝った。


「温かい甘酒飲む?」


操は優しく笑った。珠子はマフラーやジャケットを脱ぎながら頷いた。


「じゃあ、うがいと手洗いをしてきて」


洗面所から戻ってきた珠子がダイニングの倚子に座ると、操はテーブルに湯気のあがっている甘酒と粒々した薄桃色の餅に桜の葉を巻いた道明寺が乗った小皿を置いた。


「あれ、今日お雛様の日だっけ?」


珠子がカレンダーを見ようとすると、


「ひな祭りは明日」


操が言って甘酒を啜った。


「熱っ、甘酒少し熱いから気をつけてね」


「うん」


珠子がふうっとしながら飲む姿を見て操はほっとした。


「ミサオ」


「なあに」


「あのね……いや何でもない。桜餅おいしいね」


「そう。よかった。そうだ、この後さ図書館に行こうか。また絵本を借りてこよう」


「うん」




図書館から戻った珠子と操が部屋の扉の鍵を開けていると、


「タマコちゃん、こんにちは」


後からの声に振り向いた。

そこには高田涼が立っていた。

珠子は深呼吸を一つして


「リョウ君こんにちは」


大きな声で挨拶をした。


「神波さん突然すみません。もしご都合がよろしければ、またタマコちゃんをデッサンさせてもらえないかなと思いまして」


「私は構わないけど、姫どうする?」


操と涼が珠子を見た。


「いいですけど…」


珠子は頷いた。


「とにかくリョウ君、中に入って」


操が奥のソファーを勧めた。涼は前に描いた時と同じように目の前の珠子をさらさらとクロッキーした。珠子は何パターンか言われた通りのポーズを取った。最後に珠子の顔の表情をしっかりデッサンしている涼を珠子は見つめ返す。

そして気がついた。今の涼が纏っている雰囲気は、絵を描きたい、もっとたくさん、ひたすら描きたい。ただそれだけだった。純粋な絵画や芸術への思いだ。不思議なくらい邪心がない。

それに比べて、何だか勝手に憧れて失恋して寂しくなって落ち込んでいる自分が凄く小さいなと珠子は思った。

デッサンを終えた涼が、珠子に向かって右手を差し出した。


「タマコちゃん、モデルになってくれたり、僕の絵を見て喜んでくれたり、素敵な絵手紙をくれたり、ありがとう。凄く充実した日々を過ごせたよ。僕がねオランダに行こうと決めたのは、前にタマコちゃんをメインに絵を描いたのがきっかけなんだ。あれから、もっと何か──殻みたいなものを破りたいって思った。今のままでは変われない、変わりたい、これが留学する理由なんだ」


珠子も右手を出し涼の手をしっかり握った。


「私、大ファンの一人として、リョウ君を応援してます」


「どうもありがとう。五月の終わりまでここにいるから、よろしくお願いします」


「はい」


珠子はにっこりと笑顔で返事をした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ