珠子の失恋(1)
「珠子ちゃん、黄色・ピンク・水色・オレンジ・黄緑色のどれが好き?」
フリーペーパーの編集者、津田健一が聞いた。ここは津田が編集作業と打ち合わせに使っているシェアオフィスで、春号の表紙用撮影の打ち合わせ中である。
「うーん、今はオレンジかな」
珠子が答えた。
「津田さん、姫の好きな色を聞くのは撮影に関係あるんですか」
操が尋ねると
「今まではバストアップって言うか珠子ちゃんの綺麗な顔を全面に持ってきた写真だったんだけど、今回は全身で躍動感のあるものにしたいなと思ってね」
津田が写真データを見せながら言った。
「ここ、昨日ロケハンで撮影したんだけど」
「まあ素敵な菜の花畑ですね」
操が感心した。
「今回ここで撮りたいなと思って、これをバックに珠子ちゃんの衣装をどの色味にしようかなと悩んでるんです。ボトムはデニムのオーバーオールに決まってるんですけどね、スポンサー提供なんで。それに合うTシャツとスニーカーと小物類をねえ…」
「ヘアメイクの川村さんは何て仰ってるの」
「それが体調不良で、それも結構重篤みたいでしばらく休んでいたんですが今回が久しぶりの仕事なんですよ。衣装の準備は任せてって言っているんだけどね。念のため僕の方でも用意しておこうかなと思いまして。天候やロケーションの状態を考えると明後日までに撮影したいので。ただ、子どもの服ってわからないから珠子ちゃんの好みの色味から攻めてみようと思ったんです」
津田が苦笑いした。
「川村さん、そんなに具合悪いんですか?」
「本人は大したことないと言ってるんですけど、退院したのが一昨日だそうなんです」
「入院されていたんですか。そう言えば、前回の着物に合わせたメイクの時ほとんど会話しなかったかも。それにウチの娘たち川村さん宅を掃除させてもらっているんですけど、しばらく伺ってないって言っていたわ」
そんな話をしていると津田の携帯にメッセージが届いた。
「お、川村さんだ。衣装を持ってこれから来るそうです」
「良かったですね」
珠子が微笑む。
三十分も経たないうちに川村が大きなバッグを肩にかけてやって来た。
「どうも。お待たせしました。早速衣装の確認お願いします」
「川村さん、体調大丈夫なんですか?」
操が心配そうに聞いた。
「津田さん、病気のこと大袈裟に盛って話してません?神波さん、私ね虫垂炎が悪化して腹膜炎を起こしちゃったの。今はもう元気よ。珠子ちゃん、衣装合わせしましょう」
翌日、見事な撮影日和の中、津田は被写体にカメラを向けた。
目が覚めるような青い空の下、黄色く満開な菜の花が広がっていた。その中に、珠子が立っている。
オレンジ色の細かいボーダー柄の長袖Tシャツにインディゴのオーバーオール、足元はサックスのソックスとスニーカー、柔らかな髪をツインテールにした珠子は津田の合図で思いっきりジャンプした。足元が見えるように菜の花の手前でも跳ねたり走ったりしたところを撮影し今日の珠子の仕事は終了した。
おまけで操とのツーショットを撮ってデータを送ってもらった。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです。珠子ちゃん、次回が最後なんだけど特集を組むので表紙以外に何カットか載せる予定ですので、よろしくお願いします。それと、今撮ったものをスポンサーのジーンズショップに送ったらオーケーが出たので、そのオーバーオール珠子ちゃんにプレゼントするそうです」
津田に言われて、珠子は喜んだ。
「ありがとうございます。こういうズボン持ってなかったから嬉しいです」
珠子たちはアパートまで送ってもらい、製本が終わったら仕上がったものをまた届けますと言って津田は帰った。
部屋に入ると草臥れたのか珠子はソファーに上に倒れ込んだ。
「姫、疲れちゃった?」
操が心配そうに聞いた。
「うん、少しだけ。それとね、なんか、なんかね、この辺がおかしいの」
珠子は胸の辺りを掌でぐるぐる擦った。
「えっ、胸が苦しいの?呼吸できてる?」
操が慌てて傍に来た。
「心臓じゃないよ。心って言うか気持ちって言うか…もやもやするの」
珠子が元気なく答えた。
「撮影している時はあんなに元気だったのに。ここに戻ってから急にって」
操は柔らかな髪を撫でることしかできなかった。
だが、夕方になると珠子のもやもやの理由がはっきりした。
操が夕食の準備をしていると、インターホンが鳴り、
「こんばんは。二階の高田です」
208号室の高田涼の声がした。
扉を開けると、爽やかな好青年が立っていた。
「リョウ君、こんばんは。どうされました?」
操の問いに答えた涼の言葉がソファーの珠子の耳まで届いた。
「僕、留学することになりまして」
「まあ。どちらへ」
「オランダへ」
「オランダ…と言ったらレンブラントとフェルメールとゴッホ、あとブルーナだったかしら、そのぐらいしか私は知らないけどやはり絵画の勉強には良いところなのかしらね」
「父の知り合いがあちらにいて修行しないかと言われまして、僕も動くのなら今のうちかなと思ってアムステルダムに行くことに決めました」
「そうなの。姫が寂しがるわ。いつこちらを発つの」
「六月の中旬頃に。向こうのスケジュールだと中途半端なんですけどね。それで五月いっぱいでこちらを退去させていただこうと」
「承知しました。何か困ったことがあったら声をかけてね。姫、こっちにおいで」
操は珠子に声をかけたが、玄関に姿を見せなかった。
「あの子、リョウ君の大ファンだからショックなのかしらね」
「タマコちゃんには改めて挨拶します。それでは」
「どうも。おやすみなさい」
涼が帰り玄関の扉が閉まると、ソファーの上で珠子は声を出さずに大粒の涙をこぼした。