柊の彼女
二月最後の土曜日、柊は少しだけ落ち着きがなくなっていた。
「お前、えらくそわそわしてるな」
兄の柏が笑う。
「そんなことない」
柊は平静を装う。
彼が落ち着かないのは──なぜなら、今日初めて彼女を母親に会わせるからだ。今までだって付き合っていた人を家に連れてきたことはあった。しかし、それは彼が学生の頃、前の家でのことだったので結構昔の話だ。そして、これからここを訪れるその人とは将来を見据えている。ただ一抹の不安なのは、彼の母と姪っ子がその人を深く感じ取ってしまうことだ。
「ちょっと母さんのところに行ってくる」
柊は部屋を出て101号室を訪れた。
「おはよう」
「ヒイラギ君おはよう」
姪の珠子が玄関に出てきた。
「おう」
柊は珠子の頭を軽く撫でて、母が立っているキッチンへ向かった。
「母さん、今日はよろしくな」
「おはよう。どんなお嬢さんかしら。ええと名前は?」
操はノンアルコールのサングリアを作ろうと柑橘類の皮を剥きながら聞いた。
「石井美雪」
「ミユキちゃん、可愛い名前ね」
「母さん、あのさ、あの…」
歯切れの悪いもの言いの柊に、
「アンタの言いたいことはわかってるわよ」
操が苦笑いした。柑橘の房の薄皮を剥いてボウルに入れながら、
「私も姫も、ミユキちゃんの腹の中を探ろうなんて一ミリも考えてないよ」
肘で柊の鳩尾を軽く突いた。
「うん」
ばつが悪そうに柊が頭を掻いた。
それを見ていた珠子が口を開いた。
「ヒイラギ君、私のことが気になるようなら、カシワ君の方にいるよ。ノッシーにも会いたいし」
「いや、俺が気にしすぎてた。ごめん。タマコも美雪に是非会ってくれ」
「うん。お姉さんに会うの楽しみ」
珠子は満面に笑みを見せた。
昼近くに柊は美雪を連れて操の部屋へやって来た。
「いらっしゃい。さあ、上がって」
操は二人を奥へ案内した。
「初めまして。石井美雪と申します」
柊の彼女は丁寧に頭を下げて挨拶をした。操も正面に向かい合って挨拶した。
「柊の母の操です。この子は孫の珠子です」
「こんにちは」
珠子もお辞儀をした。
「さ、座って。ミユキちゃん楽にして」
操がソファーにどうぞと勧めた。
「お口に合うかわかりませんが、よろしければ召し上がってください」
美雪がケーキの箱を操に手渡すと、
「まあ、パティスリーブランのだわ。ここのケーキみんな大好きよ。どうもありがとうございます。後でみんなでいただきましょう。さあ座ってちょうだいな」
にこやかな柊の母を見ながらソファーに腰を下ろした。
そこへ珠子が、そろりそろりと湯呑みを乗せた盆を持ってやって来た。
「ミユキちゃん、お茶をどうぞ」
珠子に勧められて美雪が一口飲むと
「美味しい。珠子ちゃんが淹れたの?」
「はい。張り切って淹れました」
珠子の真剣な顔つきに美雪は思わず笑顔になった。
「珠子ちゃん可愛い」
リラックスした美雪の声に柊はほっとした顔になった。
美雪の隣に柊、向かい合って操と珠子がソファーに座り、柊が改めて紹介をした。
「こちらが石井美雪さん」
「美雪です。特に仕事はしていませんが、子ども食堂の手伝いをさせてもらっています」
「まあ、子ども食堂」
ははあーん、そこで顔見知りになったのねと言わんばかりの操の顔を見て柊は急いで紹介の続きを話した。
「美雪はあの『松亀』の娘さんだ」
「松亀って老舗の鰻屋さんじゃない」
「そう。そこの末娘で現在25歳。子ども食堂では調理もするし、子どもたちに勉強を教えたりもしているんだ」
「ミユキちゃん、ご兄弟は」
操が聞いた。
「兄が二人いて店で修行しています」
「そうなのね」
「私は跡継ぎではありませんし、末っ子なので自由に育てられました。ですので世間知らずなんです。学生時代の仲間に騙されそうになったところを彼が柊さんが助けてくれたんです」
「ヒイラギのナンパじゃないの」
操は少しばかり驚いた。
「違うって」
「それで、アンタがミユキちゃんのご両親に会っていただいて、先方はなんて仰ったの」
操が柊に聞くと、
「父も母も柊さんに凄く好感を持っています。彼はとても自然体でお世辞を言わなくて気持ちの優しいところが父はとても気に入ったと申しておりました」
美雪が答えた。
「ミユキちゃん、ふつつか者ですがこの子をよろしく頼みますね」
操が頭を下げると、恐縮して美雪もお辞儀をした。
「こちらこそよろしくお願いします」
「さ、堅苦しいのはここまでにして、そろそろお昼にしましょうか。もうすぐピザが届くから、ミユキちゃん手伝ってくれる」
「はい」
二人はキッチンへ行ってしまった。残された柊を見て珠子は微笑んだ。
「ヒイラギ君、可愛いお姉さんだね」
「だろう」
「うん。ヒイラギ君にはちょっともったいないかも」
「おまえ、言うね」
夕方、操の部屋を出て柊は美雪と並んでアパートの敷地内にある駐車場へ向かった。
車をスタートさせると、
「美雪、今日はありがとうな」
柊が言った。
「私の方こそ、ヒイのお母さんにお会いできて良かった。なんか頼り甲斐があるって言うか、気さくで一緒にいて楽しかった」
「肝っ玉母さんだからな」
「肝っ玉母さん?」
「ああ、昔のドラマのタイトルらしい。俺も見たことはないんだけどさ、何事にも動じないでーんと構えたそれこそ頼り甲斐がある母親を指すみたい。ま、ウチの場合はただの鈍感なのかもな」
「違うよ。ヒイのお母さんは凄く聡明で気配りのできる人」
「ずいぶん良く思われたな母さん。美雪、まだ早い時間だからドライブするか」
「うん」
二人には定番のデートコースがある。高台に車を止めて降りる。そこから遠くまで広がる街並みを見るのがお気に入りだ。今の季節、風は冷たいが美雪を柊が後から抱きしめるとお互いの体温で温かい。背の高い柊は美雪の頭に顎を乗せて二人はより密着する。
「ヒイ、髪がペタンコになる」
美雪が言うが柊はそのまま動かない。
「もう少しこうしていたい」
柊が少し甘えた声を出す。
「じゃあ、私、ヒイの方を向きたい」
「うん」
北風は二人を一つにするきっかけをつくってくれる。