操と美子のバスツアー(3)
いざ発車というところで操がトイレに行ってきますと言って突然バスを降りたため、出発予定時刻を疾うに過ぎているのだがバスはその場に留まったままでいた。
なかなか戻らない操に、ツアー客の中から文句を言う人が出てきた。
「あのおばさん、身勝手過ぎないか」
「運転手さん、あのおばさんは置いていってもいいからバスを出してくれよ!」
苦情を言う客に
「すみませんが、もうしばらくお待ちください」
ツアーガイドが宥める。
運転手が客に聞こえないように
「終着場所へ予定時刻には着かないよ」
ボソボソとガイドに伝えた。
ガイドもそうですね、と頷くしかない。
そんな車内の雰囲気に美子は席を立って
「皆さん私の連れが申し訳ありません。今しばらく待ってください」
と頭を下げた。
やがて、
「すみませんでした」
と操が戻って来た。
「おばさん、いい加減にしてくれよ」
「このツアーが終わってから電車に乗って帰らなくちゃならないんだ。おばさんのせいで電車を何本遅らせなきゃならないんだか」
「ホントよ。あなたみたいな勝手な人はバスツアーに向かないわよ」
苦情の嵐を受けながら
「皆様、ごめんなさい」
操は素直に謝った。
そして運転手とガイドにも小さな声で謝罪をした後、更に声を落として
「あの、次に休憩するサービスエリアまで特に注意を払って進んでください。おそらく大きな事故に遭遇すると思います。私、勘が鋭いんです」
と、伝えると操は頭を下げながら美子の隣に座った。
運転手は複雑な表情を見せ、ガイドは
「お待たせしました。バスが出発します。シートベルトをしっかり着けてください」
と乗客たちに伝えた。
「美子さん、周りの冷たい目線が突き刺さったでしょう。ごめんね」
頭を下げた操に
「気にしないで。大丈夫よ。頭を上げて」
美子が手を握り、彼女に耳打ちする。
「操さん、何か訳ありなんじゃないの。わざと出発を遅らせたんじゃない?」
「ええ」
操は小さく頷いた。
バスは発車して、少し走ると高速道路に入った。間もなくして運転手が進行方向の先での異常な様子に気づいた。前を走行している車に合わせて速度を落とす。次第に歩く速度と同じくらいのノロノロ運転でバスは前に進むしかなくなった。
片側三車線のこの道路の右側追い越し車線で複数台の衝突事故が起きて交通警察の到着を待っているところだった。
右側の席に座っている人たちが窓の外の光景に釘付けになった。
最新の道路交通情報を検索した乗客が速報を見て声を上げた。
「逆走車らしいぞ。そいつがぶつかっていったんだ」
左側の席の人たちも立ち上がり右側の窓を覗き込んでいた。
暗い中ではあるが、窓から見えるいくつもの車両を巻き込んだ事故現場を目の当たりにしてバスの中は妙な盛り上がりを見せていた。
「皆様、走行中です!座席に着いてシートベルトを締めてください」
ガイドがツアー客を落ち着かせるべく、立ち上がっている人々をそれぞれ席に座るよう促した。
やがて広範囲の事故現場を通り過ぎてバスはスムーズに高速道路を走り抜けた。
「操さん、さっきの事故わかってたの?」
美子が操の耳元で聞いた。
「そうじゃないけど、胸騒ぎがしたの。だからタイミングをずらしたかった。まあ、私の勘が、たまたま当たっただけよ」
操は苦笑いをして、たまたまなのと繰り返した。
後方の席で操の悪口を言っていた人たちが
「予定時刻通りにワイナリーを出ていたら、このバスも逆走車にぶつけられてたかも知れないな」
「トイレに行きたくて勝手にバスを降りた、あのおばさんのおかげで足止めされて助かったってことか」
「それにしても事故ってさ、ちょっとしたタイミングで遭う遭わないが分かれるのを実感したね」
みんな好き勝手なことを言った。
柏の部屋では、晩ごはんを食べているところに、月美のスマホに操から連絡が入った。
「お義母さん、ツアー楽しめました?珠子ちゃんは今ごはんを食べてますよ。えっ!お義母さんは大丈夫なんですか?」
月美が大きな声を上げた。
柏も珠子も孝も一斉に月美を見た。
「どうした?」
と、隣に座っている柏が言いながら電話を代わってと手を出したので月美がスマホを渡した。
スピーカーにして話をすると
──帰り道でバスが危うくもらい事故をするところだったのよ。
「ミサオ、大丈夫なの?」
珠子が焦ったのか早口で聞いた。
──大丈夫よ。姫、心配しないで。
「今、ニュース速報が出てる。逆走車が起こした多重事故に巻き込まれそうになったってことか」
柏がタブレットを見ながら大事故じゃないかと言った。
──とにかく、そういう訳で戻るのが少し遅くなるから。姫をよろしくお願いね。
「まだ飲んでないから、駅まで車で迎えに行こうか。ウチの最寄り駅で解散なんだろう」
──美子さんの息子さんが車で送ってくれるそうなので、お言葉に甘えるわ。じゃあね。
通話が切れて、柏がスマホを月美に返した。
「ミサオ…」
珠子が箸を置いた。
「タマコ、母さんは大丈夫だよ」
柏が優しく声をかけた。
「うん。わかってる。でもね、タカシの時もそうだったんだけど、大事な大好きな人が、いつ事故に巻き込まれるかわからないんだなって思うと怖くなるの」
そう言って珠子は俯いた。




