千春ちゃん
操の部屋のインターホンが鳴った。
「こんにちは」
力強いが優しい男の声。
「はーい」
幼いトーンの声が返事をすると玄関扉が開いて、中からキラキラした瞳の女の子が顔を出した。
「ヒイラギ君、こんにちは。皆さん、いらっしゃいませ。どうぞあがってください」
「タマコ、お姉さんになったな」
柊が笑顔で珠子を見た。
土曜日の遅い朝、操の息子の柊が家族と舅を連れて訪ねて来たのだ。
「珠子ちゃん、こんにちは。お久しぶりね。ちょっと背が伸びたね」
赤ちゃんを抱っこした美雪が挨拶をしながら柊の後に続いて部屋にあがった。
「ミユキちゃん、お久しぶりです。千春ちゃんもこんにちは。うわぁ可愛い!」
珠子が抱っこ紐に機嫌良く収まっている千春の顔を覗き込む。
お互いの目が合うと千春の黒目がちなクリクリした瞳が珠子に釘付けになった。そして小さな手を伸ばしたので珠子がその手をそっと握る。
千春が、ああーと声を上げた。
更に、たあーまーと言った。
「千春ちゃん、私の名前を呼んだよ!」
珠子が驚いた。
「皆さん、よくいらっしゃいました。そんなところで固まってないで、もっと奥へどうぞ」
と、操が呼びかけみんな南向きのリビングへ進んだ。
そして美雪の父の守之の前に行き
「石井さん、ようこそいらしてくださいました。さあソファーにお座りになって」
彼に美雪の向かい側に座ってもらった。
「どうもどうも。この間はウチのがお邪魔してすみませんでしたね」
と、守之が頭を掻きながら操に軽くお辞儀をした。
少し前に彼の妻の美子が、落ち込むことがあったのと言ってお酒と和菓子を持ってここに来たことがあった。そこで、操と美子は差しでお酒を呑み、やがて二人は気分良く酔っぱらい楽しい時間を過ごしているところに守之が迎えに来たのだった。そして、ほぼ泥酔状態の美子を連れて帰っていった。
「いえいえ、私も久しぶりに楽しくて美味しいお酒を呑みましたよ」
操は、また美子さんと一杯やりたいですと守之の了承をもらおうとした。
守之は苦笑いしながらも頷いた。
「ぜひ、ウチのと仲良くしてやってください。それから、珠子ちゃんこれ」
と言うと、珠子は
「はい」
と元気よく返事をして最高の笑顔で守之の傍に行った。
「珠子ちゃんに、お土産だよ」
守之が『松亀』と名前の入った紙の手提げを珠子に渡した。ずっしりと重く香ばしいいい匂いがする。
珠子は心の中でガッツポーズをしながらも、行儀よくお礼を言おうとした。が、
「ありがとうございます。とっても嬉しいですっ!後で美味しくいただきますっ!」
袋から漂う鰻の蒲焼きの匂いに、つい興奮気味なお礼の言葉になってしまった。
そんな珠子を見て、守之はたまらなくなったのか
「珠子ちゃん、握手をしてもいいかい?」
と言って手を差し出した。
珠子は操にいい匂いの紙袋を渡して、小さな両手で彼の手をしっかり握った。
「石井のおじさん、いつでもここに来てください。もちろん、美子おばさんも」
珠子が言うと、その言葉に感激した守之は涙ぐみながら
「ありがとう。今度、ウチのと二人でお邪魔するよ」
とハンカチを目に当てて頷いた。彼は、いかにも頑固な職人といった顔立ちなのだが、とても涙もろいのだ。
「さあ、お茶を召し上がって」
操が、ローテーブルに茶托に乗せた湯呑みと一口サイズのエッグタルトを並べた皿を置いた。
「ミユキちゃん、ソファーの横にある歩行器に千春ちゃんを乗せてあげて。この間まで元太が使っていたやつなの」
操がそう勧めると、美雪はありがとうございますと言って千春を歩行器に座らせた。母親の膝の上から離れ、体が自由になった千春は、床を蹴りながら恐る恐るといった感じで少し動いてみた。
「わあー、あー」
それが楽しかったのか、ゆっくり進んで珠子の方へ行こうとした。
「たあーまー、たあーまー」
と声を出して近づいて来る千春を、珠子が両手を広げて待ち構えた。
千春は床を確認するように蹴り、ゆっくりと珠子に近づいた。その様子を見て、元太とは違って慎重に一歩一歩進む千春に親近感を覚える珠子だった。
そうして珠子の広げた手をの中にたどり着いた千春は、よだれだらけの口でパクッと珠子の頬を甘噛みした。
「うわあっ」
よだれがべったりついたほっぺたをどうしたものかと、笑顔を浮かべながらも考えてしまう珠子だった。




