珠子、女っぷりがあがる
「ミサオ、この入浴剤いい匂いだね」
操が体を洗っている間、珠子は浴槽で足をおもいっきり伸ばして、淡いピンク色の湯を両手で掬った。
「茜がハウスクリーニングに伺ったお客様からいただいたんですって。そのおすそ分けなのよ」
「へえー。このピンク色のお湯に浸かってると、お肌が綺麗になったみたいだな」
珠子は右手で左腕を撫でた。
「姫は何もしなくったってピチピチでしょう」
操がクスッと笑う。
そして
「私もお湯に浸かるわよ」
「あーっ、ピンク色のお湯がこぼれちゃう」
操がウエスト辺りまで沈むと浴槽から湯がザザーっと溢れた。
珠子が慌てて立ち上がる。
「姫、立たなくていいわよ。一緒に肩まで浸かりましょう」
二人で向かい合って沈み、よく温まった。
「今日も無事に一日が終わりそうね」
操が言うと、
「今日はタカシと会えなかったな」
珠子が残念がる。
「あら、朝にいってらっしゃいを言ったんじゃないの?」
「あ、そうだった。短い時間だったから忘れちゃった」
「来年になったら、もっとタカシ君と顔を会わせる機会が減ると思うわよ」
「え、どうして?」
「タカシ君は中学生になると今までより学校にいる時間が長くなるだろうし、姫も小学校に通うようになったら、朝出かける時間が今より早くなるでしょ。タカシ君を見送る余裕はないわよ」
「そうか。寂しいなあ」
「まあ、時々ノッシーのおやつでも持ってタカシ君に会いに行けば。どうせ隣同士なんだから」
「そうだね。私、りんごを持ってタカシに会いに行く」
「そうね。そうなさい」
操は、血行が良くなってりんごのように赤くなった珠子の頬をツンツンと優しく突いた。
「ミサオ、そろそろ出よう」
ちょっとのぼせたと言いながら珠子は操と一緒に立ち上がると
「お湯がずいぶん減っちゃったね」
と驚いた声を上げた。
「この後、誰も入らないからいいわよ」
と、操が言いながら浴室から出た。
そして、脱衣所のマットの上に立つと珠子の体をバスタオルでしっかり拭き、自分も体の水滴を拭き取りパジャマを着た。
「姫、手を出して」
操が言うと珠子が小さな手のひらを出した。そこに保湿ローションを垂らす。彼女はそれをペチペチと顔に塗った。
「私、これで女っぷりがあがったでしょ」
と言う珠子に
「どこでそんな言葉を覚えたの?」
操があははと笑った。
翌朝、珠子はいつもより気合いを入れて身支度を整えると、全身が映る鏡の前で片手を上げ、いってらっしゃいのポーズをとる。
「よし、完璧」
そして玄関扉を開けて外に出た。
寒いけど今日もいい天気だ。
やがて102号室の扉が開いて、孝が出てきた。
「タカシ、おはよう」
「おう、おはよう」
孝は珠子と向き合うと両手で彼女の頬を包むように触った。
「冷たい。いつからここに立ってたんだ?」
「タカシが出てくる少し前だよ」
「嘘が下手だな」
「嘘じゃないよ」
「そうか。毎朝見送ってくれてありがとな」
「昨夜、ミサオに言われたの。来年になってタカシが中学生になったら、見送れなくなるかもって」
「確かに、お互い朝にこうやって話ができなくなるかもな。タマコだって小学生になると、この時間に出かけなきゃならない」
「うん。そうだね。だからそれまでは、今の時間を大切にしようと思ったの」
「そうだな。だけど風邪をひかないでくれよ」
「わかった。いってらっしゃい」
「いってきます」
二人は手を振った。
珠子は孝の姿が見えなくなるまで手を振り続け
「行っちゃった」
と呟いた。
「私も幼稚園に行く準備をしなくちゃ」
101号室の扉を開けて珠子の今日が動き始めた。




