人魚姫の台本
月曜日の午後、操は幼稚園に着くと担任教諭に挨拶をして珠子に声をかけた。
「中山先生こんにちは。姫、お待たせ。さ、帰りましょう」
「神波さん、こんにちは。珠子ちゃんまた明日」
「先生さようなら」
珠子が外履きの靴に履き替え挨拶をすると、中山ヒロミも笑顔で手を振った。
珠子と操は手を繋いで帰り道を歩く。
「ミサオ、劇の台本をもらったよ。アパートに戻ったら月美さんに見てもらって衣装の相談をするね」
珠子が台本が入っているキルティングの手提げを持ち上げた。
「月美さんに見てもらう前に、私も目を通していいかしら」
「もちろん。ミサオは一緒に台詞の練習につき合って欲しいの」
操の顔を見て、お願いしますと珠子が言った。
「いいわよ。それで中山先生は、どんなふうにお話をアレンジしたのかしら」
「あのね、嵐の夜に人魚姫が海面に顔を出して周りを見ていると王子様が海で溺れていて助けてあげるの。それで人魚姫は王子様の傍にいたいと思うのね」
「その辺りは図書館で読んだ絵本と同じね」
「そう。そして私の出番!人魚姫が深海の魔女に相談するの。絵本と同じで人魚姫は人間になる代わりに声が出せなくなるの」
「なるほど、同じね」
「絵本と違うのは人魚姫が王子様を助けた時、貝殻のイヤリングの片方を王子様の服のポケットの中に落としてしまうの」
と珠子が言うと
「ああ、イヤリングのおかげで王子様を助けたのが人魚姫だったのがわかってハッピーエンドなのね」
操がうんうんと頷いた。
「違うの。人魚姫は耳につけていたもう片方のイヤリングを無くしちゃうの」
「それじゃ、王子様のポケットの中のイヤリングと合わせることができないじゃない」
「そこで天使たちが登場するの」
「へえ、そういう展開なんだ」
「そう。私、優しい魔女役で良かったぁ。劇の発表楽しみだな」
珠子はスキップをしながら進んだ。
「姫、転ぶわよ」
操の部屋に帰ってきた二人はソファーに並んで座り、神波珠子ちゃん用と書かれた中山先生が作った台本を開いた。
大きめな平仮名でト書きと台詞が印字され、珠子が言う部分にはピンク色のマーカーが引かれてあった。
最初、操が最後までざっと目を通し、そして今度は珠子の台詞の前後を操が読み、珠子はマーカーの引かれた自分の台詞を読んだ。
「姫、台詞の言い回しが素敵よ。それに本当に優しい魔女なのね」
「うん。お話の全部が暖かい気持ちになるようにまとめられてるんだね」
珠子は先生ってお話を作るのが上手だなと感心しながら、今日のおやつはなあにと操に聞いた。
「ねえ、ミサオ。今度の土曜日にミユキちゃんのところに行くんだよね」
おやつのヨーグルト寒天を食べながら珠子が操に顔を向ける。
「ミユキちゃんたちね、こっちに来るって。ヒイラギが車で連れて来るみたい。姫に会うの楽しみにしてるって」
操がお茶を淹れながら言う。
「私も、千春ちゃんに会うの楽しみだな。何をして遊ぼうかな」
「姫の大事なシロクマのぬいぐるみで遊ぶ?」
「ううん。よだれで汚れちゃうからシロクマはしまっとく」
「そう言えば千春ちゃんのおじいさんも姫に会いたいから一緒に来るみたいよ」
美雪の父親の石井守之は鰻料理が大好きな珠子のことをとても気に入っていて、どうやら顔を見に行きたいと娘に言ったのだろう。
「石井のおじさんも来るんだ。もしかして…」
『松亀』の鰻の蒲焼きをお土産に持ってきてくれるかなぁ、と期待する珠子だった。
『松亀』は守之が経営している老舗の鰻屋だ。珠子が初めて店を訪れた時、守之が調理場を案内してくれてそこの職人たちの仕事や姿勢が素敵ですと珠子が感激したことが彼はとても嬉しかったようだ。
「姫、もしかしてお土産の期待してる?」
操の問いに、えへっと珠子は笑った。
「ダメよ」
「はい」
操に窘められた珠子は素直に返事をした。が、やっぱり蒲焼きのお土産をもらえたら嬉しいのになと思ってしまう珠子だった。
おやつを食べ終え、一息つくと
「月美さんに台本を見せてくる」
珠子は弾むように椅子から立ち上がると、台本を抱えて操の手を取った。
「ミサオも一緒に行こう」
二人で隣の柏たちの住まいを訪ねた。
「月美さん、こんにちは。珠子です」
インターホン越しに珠子が元気いっぱいに声を出した。
少し待ったが返事がない。
「お出かけしてるのかな?」
ん?
珠子と操が顔を見合わせた。
「なんか変だね」
「月美さん、中にいるね」
操は急いで自分の部屋に戻ると102号室の合鍵を持ってきた。それで玄関扉を開けると
「月美さーん、操でーす。勝手にあがるわよ」
操と珠子が周りを見回しながら部屋の中を進むと、リクガメのケージの前で蹲る月美の姿が見えた。




