元太のお祝いの日に(2)
「こんにちは」
操が声をかけた。
女が振り返る。
「ど、どうも」
その慌てた様子を見ながら
「何か用があるのなら、そんな風に覗いてないで、ウチに訪ねてらっしゃい、古沢礼奈さん」
操が静かに言った。
何も言わない礼奈に操が話を続けた。
「私は藍の母、神波操です。お久しぶりですね。去年の夏にホテルでお会いして以来かしら」
「あ、あの…藍のお母さん…でしたか」
礼奈は口ごもった。
彼女は去年、神波家の旅行先だった海辺のホテルに、参加できない茜の代わりに行かないかと藍から声をかけられた。学生時代から秘かに藍に思いを寄せていた礼奈は二つ返事で旅行に参加した。
ただ、彼女は藍と二人きりで過ごしたくて、あまり藍の家族とは関わらずにいた。みんなが揃ってBBQをした時もグリルに付きっきりで食材を上手に焼いていた藍の傍から礼奈は離れず、操たちと殆ど交流をしていなかった。なので今、目の前にいるのが藍の母親とは認識していなかった。
「ええ。藍と茜の母です」
本当お久しぶりねと、もう一度操が言った。
「古沢さん、一つ聞いていいかしら。昨日ショッピングモールで茜のことを物陰から窺っていたでしょう」
「えっ、茜?何を言ってるんですか。私が見守っていたのは藍ですよ」
昨日の話をされた礼奈は、そう言って真っ直ぐ操を見た。
「私が暫く目を離してた間に、雰囲気を変えてしかも変な女と買い物なんかして、やっぱり私が傍についてないとダメなのね。ねえ、そう思いません?お母さん」
この人は……。
操は何をどう話しても彼女には伝わらないことを理解した。
あの時、危険な雰囲気を感じなかったのは、礼奈が茜を藍だと思い込んで案じていたからかも知れない。だがそれは、彼女の中では藍も茜も一緒になっていると言うことだ。もはや普通ではない。
礼奈の考えや思いは根本が間違っている。彼女のとっている行動はほぼストーカーだ。エスカレートすれば暴走するだろう。そうなる前に何とかしなければと操は思った。
ただ、言葉で説得するのは難しそうだ。
「古沢さん、私があなたをお見かけしたのは最近のことなんだけど。藍とは去年の旅行から帰ってからも会っていたのかしら」
「藍ったら、恥ずかしがって一年以上もの間、私と会いたがらないし、連絡してもスルーするんです。だから、夢の中で仲良くしていたの。でもね、先週あたりから夢の中で言うんです、会うのをやめようって。きっと藍の身に何かあったんだわ。だから心配でここに来たんです」
礼奈は微笑みながら言った。それはある意味狂気に近い表情だった。
「恥ずかしがって…?。夢の中で…?」
操は正攻法で礼奈を説得するのは無理だと思った。彼女の心の歪みは操には直せない。
その時、
「ミサオ!」
アパートの二階の通路から珠子がこちらに向かって叫んだ。
買い物から戻った孝から聞いたのだろう。
心配になって操の様子を見に出てきたのだ。
「あの声。海辺のホテルで私と藍の二人の時間を邪魔した子ね。憎たらしい」
礼奈がぼそっと呟いた。
まずい。操は思った。目の前に立っている歪んだ思いを抱えた女は、自分にとっての邪魔者は排除しようと考えるだろう。
実際、操は感じ取っていた。急に礼奈に殺気が湧き始めたのだ。
刹那、操は彼女の両手を握りしめた。
一瞬驚いた顔をした礼奈から殺気が消えて「無」になった。
操が手を離すと、
「私……」
自分はなぜここにいるんだろうと首を傾げながら、礼奈はその場から離れて行った。
一人になった操は膝をつき蹲った。
「ふぁー、ふぁー」
普段は元気に声を発する元太が、ソファーに寝かされた操に優しく呼びかけた。
「あら、私どうしたんだろう」
ゆっくりと目を開けた操に、跪いた珠子が泣きながら言った。
「ミサオ、ごめんなさい。私が呼んだせいで、ミサオの体力が消耗することになっちゃったの」
「母さん、びっくりしたよ。タカシが呼びに来て外に出たら、フェンスのところで倒れていて意識が無かったんだぜ。救急車を呼ぼうとしたら、タマコがちょっと待ってって言うし。とりあえず月美とタカシと三人で母さんの部屋に運んでソファーに寝かせて安静にしてもらった。とにかく意識が戻って良かった」
柏が、ほっとしたよと言った。
「タカシ君、カシワ、お世話かけたわね。ありがとう。月美さん心配をかけてごめんね。姫、あなたが私を呼んでくれたから、思い切った行動がとれたのよ」
操は珠子の頭を撫でながら笑顔を見せた。
そして、操が倒れた経緯をみんなに話した。
「これで、藍も茜もあの人に後をつけられたり盗み見られることは無いと思うわ。コウちゃん、元太、お誕生日会を始めるの遅くなっちゃったわね」
「大丈夫です。気にしないで、お義母さん」
鴻も安心した顔を見せた。
操の部屋に柏一家と鴻と元太と、そして珠子が揃ったので、急遽、元太の誕生日会はここで開くことになった。
鴻のところからケーキや料理や離乳食を持ってきて操の部屋のダイニングテーブルに置いていく。
それに加えて月美がちゃちゃっと手でつまめるような料理を作った。
柏は自分のところから大人の飲み物を持ってきた。
鴻は操に言われて、彼女の部屋に用意されていたプレゼントのうち、珠子と孝のをここに持ってきた。
準備が整って、みんなでグラスを持つ。
「ちょっと早いけど、元太お誕生日おめでとう。カンパーイ」
体調の戻った操がグラスを掲げた。
「うきー、あー」
元太はミルクが入ったストロー付きのカップを鴻と一緒に持ってご機嫌な声をあげる。
「カンパイ」
柏は、なみなみと注がれたビールがこぼれないように口をグラスに持っていった。
珠子と孝もグラスを軽く合わせて、見つめ合いながらジュースを飲んだ。月美はそんな二人を優しく見ている。
それから、デコレーションケーキの真ん中にロウソクを一本立てて火を灯すと
「ケーキの準備できましたよ」
月美が声をかけた。
「元太、ふうーってできるかしら」
と言いながら、鴻がケーキの近くに元太を連れて行った。
部屋を暗くして怖がるといけないので、明るいままでみんなでハッピーバースデーを歌った。
「さあ、元太。ふうーって」
珠子が息で火を吹き消すフリをした。元太が真似をする。
「そうそう」
珠子がもう一度吹き消すように息を吐いた。
鴻が元太を抱きかかえロウソクの近くに顔を寄せると
ふうー
元太が見事に火を吹き消した。
「凄いぞ元太」
柏が感心した。
「本当、元太は肺活量あるな」
孝も驚いた。
「うきーっ」
元太は褒められているのがわかるのか、ご機嫌な声をあげた。
「元太、私と孝からプレゼントだよ」
珠子と孝が並んで、それぞれが書いた『元太一才』の半紙を収めた額を持って見せた。
「おっ、いいじゃん。タカシは相変わらず上手いし、タマコは大胆な性格がわかる字を書いてる」
柏が二人の字を見て、うんうんと頷いた。
元太も二つの額を見て
「たあー、たあー」
と指をさして、元気な声で嬉しさをアピールした。