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操と美子

夜、珠子がベッドで寝息を立て始めた頃、石井美子(よしこ)から操に連絡が入った。


「はい。操です。美子さん、お久しぶりです」


──操さん、こんばんは。今、話をしてても大丈夫?


「こんばんは。大丈夫よ。どうしたの?なんか元気がないみたい」


──うん。ちょっと落ち込んでる。


美子は、操の息子・柊の婿入り先である石井家の姑だ。つまり柊の嫁・美雪の母親だ。

彼女は老舗の鰻屋『松亀(まつき)』の女将なのだがとても気さくな女性で、操と年齢も近いせいか話が合う。珠子が幼稚園に通うまでは、お互いの時間が合えばよくお茶をしたりしていた。


「どうしたの?美雪ちゃんと千春ちゃんはお元気?」


──私、一時期ほど美雪のところに行ってないんだけど、親子三人元気にしてるみたい。でね、操さん、近いうちに会いたいんだけど。


「いいわよ。もし良ければウチに来ない?」


──そちらに伺ってもいいの?


「ええ、私は構わないわ。是非いらして」


──明日、伺ってもいい?やっぱり急すぎるわよね。


「私は構わないわよ。珠子を送って九時には戻ってると思うわ」


──じゃあ、明日十時過ぎにお伺いします。


「わかりました。美子さんに会えるのを楽しみにしてるわ」


──ありがとう、私もよ。それじゃおやすみなさい。


「おやすみなさい」


通話を切って操は首を傾げた。

こんなに元気のない美子の声は初めて聞いた。老舗を切り盛りする豪快なイメージの彼女らしからぬ雰囲気だった。




「操さん、こんにちは。美子です」


インターホンから声がした。


「いらっしゃい。あがって奥へどうぞ」


操が笑顔で出迎え、美子にソファーを勧め


「十月も後半なのに、昼間は結構暑いわよね」


と言いながら、水出し緑茶を出して向かい側に座った。今日の美子はコットンシャツにチノパンツのカジュアルな出で立ちだった。


「操さん、ウチのが珠子ちゃんにって」


美子が、しっかり包装されているが香ばしい良い香りがにじみ出ている包みを操に渡すと


「まあ、あの子、喜ぶわ。こんなに高級なのをすみません」


操は恐縮して受け取った。

珠子は『松亀』の鰻が大好きだ。と言うか、初めて食べたのがここの鰻なので口が肥えてしまい、他の鰻は小骨が多いとか香ばしさと食感が違うとか言って食べないのだ。


「お酒をちょっとだけ振ってレンチンで結構いけるから、召し上がってね」


「ありがとうございます」


操は包みをキッチンに持って行こうとすると、


「操さん、これ一緒に食べましょう」


美子がもう一つの渋い紫色の包みをローテーブルに置いた。

『菓匠・籐花(とうか)』の包みだった。

この和菓子店もかなりの老舗で、大事な相手への手土産は個人でも企業でもここの菓子を持参することが多い。


「これ、籐花のじゃないですか」


「そう。ここの栗蒸し羊羹、美味しいから一緒に食べましょう。分厚く切ってかぶりつきましょうよ」


操は羊羹の包みも持ってキッチンへ向かった。

鰻を冷蔵庫にしまい、高級羊羹を贅沢に分厚く切ってローテーブルに持って行った。


「美子さん、芋はないけど麦ならあるわよ。車でなければ召し上がる?」


操が聞いた。

美子はストレスが溜まると、羊羹をかじりながら芋焼酎を豪快に呑む話を聞いていたので、目の前の彼女の様子を見て勧めてみたのだった。


「操さん、いいの?」


「ええ、いいわよ。私はお迎えがあるからそれまではやめておくけど」


それじゃロックでとリクエストされたので、氷を保冷機能があるアイスペールに入れロックグラスと淡い琥珀色の熟成麦焼酎を用意した。そして、美子は焼酎、操は緑茶で乾杯した。

美子は黒文字楊枝で栗蒸し羊羹を半分に切ると、その一つを刺してパクッと口に入れ焼酎をぐいっと煽った。そして、ふうーっと息を吐くと


「美味しい。操さん、この焼酎芳醇で美味しいわ」


少し表情が和らいだ。


「気に入ってもらえて良かった」


操も羊羹を黒文字で三つに切って口に運んだ。贅沢な味がした。


「ねえ、美子さん、何か悩みがあるの?口に出すだけでも気持ちが楽になるかも知れないわ。私で良ければ聞くわよ」


操がそう話すと、


「死んじゃったの」


呟くように美子が言う。


「えっ?」


操は美子の気持ちを感じ取ろうとした。それは彼女の身近な人ではなく、もっとずっと心の奥にしまっているもののようだ。


「死んじゃった。リック」


「リック?」


美子は青春時代、イギリス出身のロックバンドに夢中だったようだ。リックはそのバンドの主要メンバーだという。彼らの曲は何かのテレビCMのバックに流れたこともあったらしいので、コマーシャル好きだった操も聞いたことがあったかも知れない。美子の周りではブリティッシュロックにハマった同窓生が結構いて、来日公演があると必死にチケットを取っていたようだ。


「でもね、私が推していたバンドは日本ではそこまでブレイクしなかったから生で見ることはできなかったの。だから当時はCDとかで曲を聞いて、初めてファンレターとか書いて。もちろん返事なんて来なかったけどね」


遠い目をして美子が言う。


「へえ、美子さんて、そういうのが好きだったのね」


「そう。当時は、そのバンドのアルバムジャケットを壁に飾ったり、友人と自分の推しがいかにカッコイイか言い合ったりして楽しかった。今はその人たちと付き合いもないから、誰かに私の気持ちを聞いて欲しかったの」


「私で良ければ、話を聞くわ」


当たり前なのだが、このしっかり者の老舗の女将にも、もちろん自分にも、青春時代はあったのだ。世代も同じなので当時の雰囲気も理解できる。そして立場上、自分に近し過ぎる人々には、あまり素の自分を見せたくなかったのかも知れない。

操は黙って美子の思い出話を聞き頷いた。

昼を過ぎる頃には、話をして悲しい寂しい胸の内を吐き出せたのか、美子はソファーで横になり気持ち良さそうに寝息を立てていた。

操は毛布を掛けて、テーブルの上を片づけた。

珠子を迎えに行く時間になったので、操は美子にメモを残し出かけた。メモにはこう記した。

『美子さん、ウチの姫を迎えに行ってきます。戻ったら一緒に吞みましょう。私たちがキラキラしてた頃の話をもっとしましょう!』

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