操、付き添う
いつもと変わらない平日の朝。
「タカシ、おはよう」
外に出て来た孝に、珠子は元気に声をかけた。
一昨日、昨日と、重く暗い表情だった彼女と同一人物とは思えないほど今朝の珠子の笑顔は軽やかで穏やかだった。
「おはよう。おばあちゃんの調子はどうだ」
孝が、目の前で微笑む珠子から操の様子を聞いた。
「あのね、ミサオは月美さんのごはんが美味しくて…」
ここまで話した珠子は、それからの操のことを孝に耳打ちした。
「なぁんだよ。おまえ昨日まであんなに自分を責めて悩んでたのにな」
耳元で打ち明けられた話に、孝は珠子を不憫に思い
「タマコ、今度おばあちゃんに何かおごってもらおうな」
と言いながら軽くハグをした。
「うん。そうだね。でもね、ミサオも月美さんに甘えたかったんだよ」
そう言う珠子が意地らしくて、孝はもう少し抱きしめていたかったが
「それじゃ、いってきます」
手を振って学校へ向かった。
珠子もおもいっきり手を振って孝を送りだした。
さっき孝が操のことを、ちょっと怒っていたのはこの二日間、体調不良で寝込んでいるはずだった操が、初日に彼の母である月美の作った食事で栄養を取ってゆっくり休んだら、翌日にはすっかり熱も下がり大分元気になったのだが、もう少し月美に甘えたくて美味しいごはんを作ってもらい堪能し、のんびりしていたのだ。そんなことを知らずに、操に負担をかけて申し訳ないとしょんぼりとしていた珠子を傍で見ていた孝は、熱が下がって調子が良くなったことを彼女にだけでいいから早く伝えて欲しかったのだった。
そうやって自分のことを気にかけてくれる孝の気持ちが嬉しくて、また、操がすっかり元気になったことに安堵して、珠子は鼻歌交じりに部屋へ戻り通園の支度をした。
珠子と操が部屋を出て玄関扉に鍵をかけていると、
「大家さん、おはようございます」
後ろから挨拶をされた。
振り向くと、207号室の久我晶だった。
「久我さん、おはようございます。お顔を見るの久しぶりね」
操が相手を見つめながら挨拶を返した。
「実は、ちょっと聞いて欲しい話がありまして」
晶の顔に疲労の色が見えたので、
「久我さん、これからこの子を幼稚園に送ってくるので、戻ってからでよければ、お話を伺いますよ」
操が言うと、
「わかりました。お願いします」
と返して、晶は自分の部屋ではなく、その真下に住んでいる彼の母、久我愛子の部屋へ入っていった。
幼稚園へ向かいながら珠子が操を見上げた。
「ミサオ、久我さんはお母さんの事で何か心配をしているみたい。多分、体の具合が良くないのかも」
「姫も感じた?」
操も珠子の顔を見る。
「うん。かなり心配してる。ねえ、ミサオ」
「なあに」
「ミサオはお風邪が治ったばかりだから、無理しないでね。私にできることがあればお手伝いするから」
珠子は真面目な顔をした。
「わかったわ。姫、ありがとう」
操は心優しい孫娘を幼稚園に届けると、急いでアパートに戻った。
敷地内に入ると、階段の下から三段目に腰を下ろしている久我の姿が見えた。
操は彼の前まで行くと、
「久我さん、お話伺いますよ。ウチへどうぞ」
玄関の鍵を開けた。
ソファーに座った彼に熱いお茶を出しながら
「散らかっててごめんなさいね。昨日まで風邪で寝込んでいたものですから」
と言って、操は向かい側に腰を下ろした。
「体調を崩されていたんですか。そんな時に申し訳ありません」
晶は恐縮しながら頭を下げた。
「気にしないで。ただの風邪ですから。それでお話って」
操はお茶をどうぞと勧めながら彼に話を促した。
「母のことなんですが…実は、最近異様に痩せてしまって」
「今、愛子さんはどうされているんですか」
「寝たり起きたりです。食事もあまり取っていないようで」
「そうですか」
「こんなこと大家さんに相談するのは違うと思うんですが、誰に話していいのかわからなくて。頼ってしまってすみません」
「構いませんよ。わたしができる範囲の事なら協力します」
「ありがとうございます」
「ところで病院には行かれたんですか」
「それが、嫌がって行ってくれないんです。もちろん私が付き添うからって言い聞かせているんですけど。病気が見つかることを怖がっているようで…」
晶がため息交じりに言う。
「愛子さんは私よりちょっと若いくらいですよね」
「多分そう…なのかな?」
「一度、愛子さんの部屋に伺ってもいいかしら。ここに来てもらってもいいのだけど、動くのが辛いんでしょう」
「…そうですね」
晶は操を連れて、愛子の部屋へ向かった。
107号室の玄関扉を開けようとしながら晶が操に言った。
「大家さん、散らかってますが驚かないでください」
「は、はい」
操はテレビでたまに取り上げているゴミ屋敷の映像を頭に浮かべた。アパートの管理人としては、そういう状態はとても困るのだ。扉を開けた途端、悪臭が漂ってきたらどうしようと操は身構えた。が、そんな心配には及ばなかった。
晶が扉を開けて
「どうぞ」
と言いながら先に部屋にあがって行った。操も後に続く。
「お邪魔します」
愛子の部屋はきちんと片づいていた。晶が掃除をしているのだろう。窓が開いているのか部屋の中はひんやりとしていた。
「母さん、大家さんに来ていただいたよ」
ベッドで起き上がっている愛子に晶が声をかけた。愛子がこちらを向く。
「愛子さん、お久しぶりです。神波です」
操が挨拶をすると愛子は小さく頭を下げた。
晶が折りたたみ椅子を開いてベッド脇に置いてくれたので、操は静かに腰を下ろした。
そして、黙ったまま愛子を見つめた。元々スマートな人だが、目の前の彼女は骨格がはっきりわかるぐらい痩せ細っていた。肌の色も良くない。そして、微かに嫌な匂いがする。
「愛子さん、今すぐ病院に行きましょう」
私も一緒に行くからと操は強く言った。そして、
「今なら、まだ間に合うから」
と、愛子の手を握った。
「大家さん、私、大丈夫かしら」
「ええ、今なら大丈夫よ」
操の声は人を素直にさせるようだ。
「それじゃお願いします。一緒に行ってください」
愛子は病院に行くと言ってくれた。
操は晶の顔を見て、
「愛子さんの支度を手伝ってあげてください」
と頼み、自分の部屋に戻った。
そして、身支度を整えると柏の部屋に顔を出し、月美に珠子のお迎えを頼んで操は久我親子と総合病院へ向かった。
昨今、大きな総合病院は街のクリニックからの紹介状を持参しないとすぐに診てもらえない場合があるが『ハイツ一ツ谷』の近くにある総合病院は融通が利くようで、愛子も少し待っただけで総合診療科で診てもらうことができた。
疑わしいところを検査して結果を聞くため久我親子は診察室に入って行った。操は待合スペースで二人を待った。
「大家さん」
医師の説明を聞いて診察室から出てきた愛子が操の隣に腰を下ろした。操が愛子の顔を見ると
「大家さん、私、入院になっちゃいました。でも癌ではないって言われました」
少しだけほっとした顔の愛子が口を開いた。
「取りあえず一安心ですね。でも悪いところはしっかり治しましょう」
操は愛子の手をしっかり握った。
その後、久我親子は入院の手続きを取るためのセンターに向かい、操はアパートに帰った。
柏の部屋に顔を出すと
「ミサオ、お帰り」
「おばあちゃんお帰りなさい」
珠子と孝が玄関で出迎えた。
「ただいま」
「お義母さん、お疲れさまです」
月美も顔を出した。
「月美さん、今日も急なお願いを聞いてくれてありがとう。助かったわ」
「お義母さんこそ、病みあがりなのに大変でしたね」
月美が労いの言葉をかけて、手を洗ってソファーに座った操に、作りたてのおにぎりと熱いお茶を出した。
「ありがとう。いただきます」
と言って、美味しそうにおにぎりを頬張った。
その隣に珠子が座ると操の顔を覗き込んだ。
「ミサオ?」
操は何も言わずに珠子を見た。
珠子はため息を吐いて、そうなんだと呟いた。