操の膝の上
「珠子ちゃん、元気がないね。どうしたの?」
永井葵が珠子の様子を見て心配する。
「うん…」
珠子が弱々しく返事をする。
「わかった!食べ過ぎてお腹が痛いんじゃない」
と、大沢賢助が言う。
「そういうことはよくあるけど、今日は違う」
珠子は、はっきり否定した。
「何かあったの?」
「ミサオがお熱を出して寝ているの」
珠子の返事に
「季節の変わり目のせいかなぁ」
葵が私のパパも咳をしてるよと言う。
「そうか。季節が変わると風邪をひきやすくなるんだね」
珠子は体調を崩しているのが操だけではないことに少しほっとした。
「朝は誰に連れてきてもらったの?」
「月美さん…タカシのママ」
「珠子ちゃんて、本当に孝君と仲が良いんだね」
葵はとても羨ましそうな顔をした。彼は孝の大ファンなのだ。
「ところでさ、クリスマス会でやる劇がさ」
賢助が言う。
「何をやるのか決まったの?」
珠子と葵が声を揃える。
「さっき先生たちの部屋に用事があって行ったらさ、中山先生の机の上にアンデルセン童話の本が置いてあったんだ」
「へえ。じゃあ、その中から選ぶのかな」
「かも知れないな」
お帰りの時間になり珠子はお迎えを待っていた。
賢助も葵も、もう帰ってしまった。葵が帰るとき彼の母のレイラが
「珠子ちゃん、私たちと一緒に帰る?帰る方向が一緒だから途中でお迎えの方と会えるかも知れないわ」
と言ってくれたが、珠子は大丈夫ですと答え、葵とレイラに手を振った。
「珠子ちゃん、お迎えもう少し時間がかかりそうだから教室で待ってようか」
中山ヒロミ先生が、部屋の外は結構風が冷たいからと言ったが、
「大丈夫です。ここで待ちます」
と、靴箱の横で珠子は立って正門の辺りを見つめた。
それにしても──
月美さん、どうしたんだろうと珠子は思った。遅いと言うより何かあったんじゃないかと心配になったのだ。特に操の具合が気になった。嫌な予感はしないのだが、もしかしたらと言うこともある。珠子は俯いて大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせた。
「タマコ!」
北寄りの向かい風に流されながら彼女を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げると、黄色と臙脂色のキャップを被った孝が手を振りながらこちらに向かっていた。
「タカシだ!」
珠子は孝におもいっきり手を振り返して、教室の中にいる中山先生に
「お迎えが来たので帰ります。先生さようなら」
と言って、上履きから外履きに靴を履き替えた。
先生が教室から出てきて
「神波孝君ですね。お迎えご苦労さまです。月美さんから連絡をいただいてますよ」
孝に向かって挨拶をすると、彼もキャップを取ってお辞儀をした。
「中山先生、こんにちは。彼女を連れて帰ります」
キャップを被り直した孝は珠子と手を繋いで幼稚園を後にした。
「タカシがお迎えに来てくれるとは思わなかった」
歩きながら珠子は嬉しそうに孝を見上げた。
「朝、チラッと言ったじゃん。何とかおれが迎えに行けないかお母さんに相談したんだ」
「そうだったの」
「そう。で、やっぱりちょっと遅くなりそうだったから、本当は学校に持っていっちゃいけないんだけど」
と言いながら、孝は珠子と繋いでいない方の手を後ろに回してランドセルをポンと叩いた。
「こっそりスマホを持ってきちゃった。それでタマコを迎えに行ける時間をウチに連絡して、お母さんから中山先生に電話を入れてもらったんだ」
ただ、珠子は嬉しすぎて孝が迎えに来た経緯を殆ど聞いてなかった。とにかく、こうやって手を繋いで孝と歩いているのが嬉しいのだ。
そして、アパートに着くと操の部屋の前で立ち止まった。珠子はなかなか玄関扉を開けようとしない。
「どうした?」
孝が顔を覗き込む。
「うん。ミサオ、元気になったかな」
「タマコがちゃんと確認しなよ」
「うん…」
「大丈夫だよ。おれも一緒に行く」
珠子は扉を開けて
「ただいま。ミサオ」
「ただいま。おじゃまします」
二人は靴を脱いで奥へ行くとキッチンに立つ操を見た。
「姫、お帰り。タカシ君ありがとう。ソファーに座ってて」
操が二人に笑顔を向けた。
珠子は孝に先に座っててと言って、操の隣に立った。
「ミサオ」
珠子が見上げると、操はしゃがんで
「姫、心配をかけてごめんなさい。もう元気になったから」
と言って抱きしめた。
「ミサオの匂いだ」
珠子が泣き声を上げる。
「姫、お風呂に入ってないから、あまり嗅がないで」
操は恥ずかしそうに苦笑いする。
「いいの。安心するの」
珠子の言葉に
「姫」
操は最愛の孫娘をぎゅっと抱きしめた。
そして立ち上がると
「さ、おやつ食べよう」
りんごジュースをゼラチンで固めたゼリーをトレーに乗せて、ソファーのところに運んだ。
「タカシ君、いろいろとありがとう。本当に助かったわ」
「おばあちゃん、元気になって良かった。こいつ、ずっと元気なくてさ。おばあちゃんの体調不良は自分のせいだって言い張るんだ」
孝は隣に座った珠子の頭を小突く。
「姫」
操が正面の珠子を見る。
「あなたの送り迎えは少しも苦じゃないわ。まあ、お昼ごはんが給食に切り替わるまでのお弁当作りは料理下手の私にはしんどかったけど、姫と手を繋いで歩くのはとっても幸せよ」
「ほら、おれが言った通りだろう」
孝が得意気に言う。
「うん、そうだった。ミサオは、私と手を繋いで一緒に歩くことが嬉しいし幸せだと思っているってタカシに言われた。月美さんも同じことを言ってくれたの」
珠子は何度も頷きながら立ち上がって操の傍に行くと
「ミサオのお膝に座っていい?」
と、ねだった。
「おや、甘えん坊さんね」
操は嬉しそうに珠子を抱き上げ膝の上に乗せると、
「ちょっと重いかも」
笑いながら言った。正面の孝も笑った。
「ミサオ、声が大きいよ」
と、珠子は顔を赤くした。それでも操の膝の上は暖かくて座り心地が最高だと珠子は思った。