充実の笑顔
土曜日の午前中、孝は操の部屋を訪れた。
「タカシ、今日もよろしくお願いします」
珠子がちょこんと頭を下げる。
今日の珠子は長時間、孝と一緒にいられるので誕生日にもらったピンキッシュオレンジのTシャツを着ていた。孝がもらったのと色違いで、それぞれ名前がプリントされた珠子のお気に入りのTシャツだ。
「タマコ、それって大事なTシャツだろう。墨がついたら絶対落ちないよ」
「えっ、そうなの。石鹸で落ちないの?」
そう言いながら珠子は操をチラッと見た。
「だから注意したんだけどね。姫ったら私の言うことは聞いてくれないの。手の指紋に入り込んだ墨がいつの間にか落ちていたから、服についても大丈夫でしょって言うのよ」
操がため息混じりに反抗期かしらと言う。
「タマコ、おばあちゃんの言う通り、墨は一度つけたら絶対落ちないよ。せっかくのお揃いのシャツを汚したくないだろう」
「うん。ミサオ、言うことを聞かなくてごめんなさい」
孝に諭されて、珠子は操に向かって素直に謝った。
「着替えてくるね」
「そうしな。墨がついても大丈夫な格好をして来いよ」
孝に言われて珠子は寝室に着替えに行った。
「タカシ君、ありがとう。あの子は最近私に反抗的なのよ」
操が苦笑いを浮かべる。
「あいつ、おばあちゃんに甘えてるんだよ」
「ただのワガママ娘になってるのよ。タカシ君が注意してくれて助かるわ。でもね、あの子はあなたに良く思われたいの。本当にタカシ君が大好きなのね。もう、乙女ってるのよ」
孝は、大好きと言われて擽ったそうな表情をした。
「タカシ、お待たせ。お習字を教えてください」
珠子は洗いふるしたトレーナーと短パンという出で立ちで戻ってきた。
「その格好なら墨がついても安心だな。じゃあ始めようか」
昨日と同じように、ソファーの前のローテーブルに新聞紙を敷き、珠子は墨を硯で磨った。
「タマコ、いい感じに磨れてる」
孝に褒められて珠子は更に頑張って磨った。
「それじゃ、昨日みたいに新聞紙に線を書いてみようか」
「はい」
珠子は筆を取り横線や縦線、斜めに筆を運び払いや跳ねの練習をした。孝に褒められたい一心で真剣に筆を運ぶ。
「それじゃ、文字を書いてみよう」
今度は『元』『太』『一』『才』と、昨日孝が書いた手本を見ながら新聞紙に筆を動かした。
「いいんじゃない。じゃあ、いよいよ半紙に書こう」
孝は、半紙を半分に折り更にもう一度折る。広げると十字に折り目がついている。
「折り目で半紙が四等分に区切られているだろう。その中にそれぞれの文字を書いてみな」
孝に言われたように、珠子は書いてみた。
それぞれのスペースに、はみ出そうなくらい伸び伸びと文字を書いているのを見て、孝は彼女の大らかさと大胆な性格を感じた。
「タマコ、上手い。これをプレゼントでいいんじゃないか」
初めて半紙に書いたのに良くできてると褒められ珠子は有頂天になった。充実したいい笑顔を浮かべている。
「そうしたら左上に小筆でタマコの名前を入れよう」
大きな筆から細い筆に持ち替えて、平仮名で『たまこ』と書いた。
それを見ていた操は四角い判子を持ってきた。
「姫、これを名前の下に押して」
十五ミリ角の落款印だった。前に絵手紙教室で珠子が彫ったものだ。
「ミサオありがとう」
珠子は受け取ると朱肉をつけて押印した。
赤い四角に白く『TA』の文字が見える。
「なんかカッコイイじゃん。有名な先生が書いたやつに見えてきた」
思わず孝が言った。
「えへへ」
珠子は少し自慢気に胸を張った。
「ねえ、タカシが書いたお手本にも名前を書いて、私のと一緒にプレゼントしよう」
「そうね。せっかく素晴らしい文字を書いてくれたんだから、姫のと一緒に元太にあげましょう」
珠子と操に言われて
「それじゃ」
孝は手本用に書いた半紙にさらさらと自分の名前を書いた。
「完成だね!」
珠子は半紙に同じ文字を書いて一緒に元太にプレゼントできるのがとても嬉しかった。
孝は書き上げた二枚の半紙を操に渡して、珠子とローテーブル周りを片づけた。
「タカシ、この後は何する?お習字が思ってたより早く終わったから、まだお昼前だよ」
珠子はどこかにお出かけしようとねだった。
「タカシ君、久しぶりにプリンちゃんに会いに行く?」
操が言った。
「商店街で買い物をしたいの。その間、姫と『ぶるうすたあ』で待ってくれる」
「プリンか。会いたいな」
孝が呟くと
「タカシ、一緒にプリンちゃんと遊ぼう!」
珠子が大きな声をあげた。
「わかった。お父さんに言ってくる。すぐに戻って来るから待ってて」
そう言うと孝は柏のところに戻った。そして上着を羽織ってやって来た。
「タマコ、おばあちゃん、お待たせ」
「タカシ、行こう!」
玄関に走ってきた珠子を見て
「タマコ、可愛いベストだね」
孝が彼女のピンク色をしたモヘヤのベストを撫でた。
「でしょ。ママからのプレゼントなの」
珠子が得意気に言う。
「凄く似合ってる。でもプリンが興奮してアタックしたら爪が引っかかって引き攣れちゃうよ」
またも孝からのダメ出しをもらう。もちろんそれは、大切な服が傷まないための彼の優しさだ。
「わかった。ベストを脱いでくる」
珠子は着替えるため寝室に消えた。
ベストをやめて花柄のトレーナーを着た彼女がお伺いを立てる。
「これならいいかなぁ」
「うん。これでプリンといっぱい遊べるよ」
孝が頷いた。
「さ、出かけましょうか」
操がエコバッグを肩にかけて出かける準備が整うと、三人は外に出た。アパートの敷地を後にして商店街までの歩道を歩く。
孝は相変わらず車道側に立ち珠子としっかり手を繋いで歩いている。それを後ろから操が微笑ましく見つめた。
間もなく商店街というところで、先の方から誰かが騒いでいるようだった。
操が眉をひそめる。
「タカシ君、少しゆっくり歩こうか」
操の声に振り向いた孝は頷き、歩みを遅くした。それでも喚く声は近くなる。どうやら商店街の入り口辺りで男が騒いでいるようだ。
「正子さん大丈夫かしら」
操は商店街の入り口に店を構える『吉田精肉店』の看板女将である吉田正子が厄介なことに巻き込まれているのではないかと心配しながら、孝と珠子の前に出て歩いた。