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ハイツ一ツ谷のホッとな日常  作者: モリサキ日トミ


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初めての習字

「姫、おやつは」


操が問いかけたが返事がない。

午後、幼稚園から帰ってきた珠子はソファーの前で正座をしている。目の前のローテーブルには新聞紙が広げられてフェルトの下敷きに半紙が文鎮で固定されていた。


「姫、おやつは」


操が何回目かの質問をした。

いつもなら部屋に戻った途端


「今日のおやつはなあに?」


と聞くのに、


「ミサオ、新聞紙ある?」


と今日の珠子は聞いたのだった。

彼女は新聞紙を受け取りテーブルの上に広げて道具を置いた。

今、珠子の右隣には孝が正座をしている。

そして彼女の後ろに移動して中腰になると


「墨はこうやって持って硯の上を滑らせる」


孝は墨を摘まむように持った珠子の手をそっと握って、一緒に墨を磨った。


「肩の力を抜いて」


かしこまった珠子に声をかけながら墨を磨り続けた。

操は少し離れたところから二人を見守った。



昨日の夜、風呂上がりの珠子が麦茶を飲みながら


「ミサオ、もう少ししたら元太のお誕生日でしょ」


と言うので


「そうね。ハロウィンの一日前が誕生日ね」


操は頷きながら珠子を見つめて


「姫、元太のお祝いがしたいの?」


聞いてみた。


「うん。今の私に何ができるかなって考えたの」


「そうなんだ。で、いいアイデアは浮かんだの?」


「あのね、お習字したのをプレゼントしたいなって思ってるの」


「絵を描くんじゃなくて、お習字なの?」


「うん。ちょっと変化球」


「あら、変わった表現をするわね」


「えへへ、タカシが言ったの。絵だとストレート過ぎるから、初めての誕生日プレゼントはちょっと変化球で、元太一才って墨で書いてみたらって」


「なるほどね。でも姫、筆で字を書ける?鉛筆で書くのと勝手が違うわよ」


「絵手紙でちょっとだけ字を書いた。それに、お正月にタカシの書き初めを見学したよ。その時、一番上手く書けたのをもらったでしょう」


確かに、テレビの横側の壁に孝の書き初めが貼ってある。


「書くところは見たんだろうけど、太い筆で書くのは初めてよね」


「うん。タカシがお手本を書いてくれるんだよ」



今、時間をかけて磨りあがった墨を筆にたっぷり含まして、孝が半紙に力強く四つの文字を書いた。

『元太一才』

その書を左に置くと


「タマコ、これを手本に書いてみようか」


孝が筆を珠子に持たせた。


「タカシ、やっぱり無理」


珠子は情けない声をあげた。


「おばあちゃん、新聞紙まだある?」


孝が言うので操が古新聞を何部か渡した。


「タマコ、テーブルに広げた新聞紙に横線を書いてみようか」


長さとか太さとか気にしなくていいから、と言いながら改めて珠子に筆を持たせた。その手を孝が握り新聞紙に筆をポンと落とすと、すうーっと右に筆を動かして適当なところでぐっと止めた。

それを何度も繰り返して、孝が手を離す。


「タマコ、今のと同じようにやってみて」


「うん」


珠子は筆に墨をつけて新聞紙に筆を下ろした。そして何度も筆を動かした。縦にも斜めにも筆を動かしてみる。

新聞紙を変えて何度も練習した。


「タマコ、上手いよ」


孝が褒めてくれて、珠子は嬉しくなった。

次にこれから書く文字を一つずつ練習した。

操がそっと二人に近づいて新聞紙に練習した文字を見る。孝の教え方が上手なのか、珠子に素質があったのかはわからないが、なかなか良い字が書けていた。


「タマコ、筋がいいよ。今日はここまでにしよう」


孝に褒められて微笑む彼女の頬や鼻先や指先が墨で染まっていた。


「はい、姫は手をよーく洗ってらっしゃい。タカシ君、悪いけど姫の顔の墨を拭き取ってあげて。濡らして優しく拭いてね」


操は変わった素材のハンドタオルを孝に渡した。

珠子は洗面所でハンドソープを泡立てて手を洗った。指紋の筋に入り込んだ墨はなかなか落ちない。まっ、こんなもんでいいかと思いながらタオルで手を拭いた。

目の前の鏡越しに孝が洗面所に来たのが見えた。

彼は操に言われた通りハンドタオルを濡らして絞り、珠子の顔についた墨をそっと拭いた。完全には消えなかったが大分綺麗になった。


「ありがとう」


珠子は少し照れながら孝に言った。


「明日また書こうな。さ、片づけるぞ」


ハンドタオルが吸収した墨を洗い流しながら孝が鏡越しに珠子を見た。


「うん。タカシ、明日も教えてください」


珠子がちょこんとお辞儀をする。


「おう。任せろ」


と言って孝は笑った。

ソファーのところで広げた書道の道具を片づけると珠子と孝はキッチンのテーブルに着き、操が作ったロールケーキ・モドキを食べた。


「ミサオ、モドキってなあに?」


珠子は、がんもどきなら知ってるけどと言う。


「擬きは、なんちゃってってこと。ロールケーキっぽいものよ」


ロールケーキのスポンジは難しいもんと、操が正直に話す。


「おばあちゃん、美味しい。お母さんに作り方教えてあげて」


孝が頬張りながら操を見ると、


「教えるような作り方じゃないわ。ちょっといいホットケーキミックスに一手間加えただけよ。月美さんなら、もっと美味しいのが作れるわ」


恥ずかしそうに操は孝を見返した。




夜、操はソファーに座って孝が手本に書いた半紙を手にし、まじまじと見つめた。

珠子が傍に立つ。


「どうしたの?」


「うん。タカシ君て良い字を書くわね」


操がしみじみと言う。


「凄いよね。学校の授業でしか書いてないんだって。習いに行ってたみたいだよね」


「そうね。今までの彼は習い事に通う余裕なんてなかったでしょうからね」


孝は、柏の子どもになるまでは貧しい環境で暮らしていた。それでも彼の書く文字は伸び伸びと大らかに書かれて学校内では評判だったらしい。


「それにしても、元太が生まれてもう一年が経つのね。姫もタカシ君も成長してるし、ああ私は老けいくんだわ」


「ミサオ、大丈夫だよ。私たちに引っ張られてピチピチだよ」


優しい孫娘は祖母の頭をいい子いい子した。

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