珠子、魚住さんに相談する
「タカシ、いってらっしゃい」
珠子が手を振る。
「いってきます」
孝も手を振り返し、学校に向かった。
見送った後、珠子が部屋に戻ろうとすると、軽快な足音をさせて二階から下りて来る人がいた。
「珠子ちゃん、おはよう」
声をかけられて振り向くと、208号室の魚住順一が立っていた。
彼は背が高い。孝の父親で珠子の叔父の柏もかなり長身なのだが、それよりも十センチぐらい高いので百九十センチ近くはあるのではないだろうか。
「魚住さん、おはようございます」
珠子が笑顔で彼を見上げながら挨拶する。
「今朝も彼氏の見送りか、偉いね。珠子ちゃんもこれから幼稚園に行くんだろう」
「はい。見送ってました。タカシの元気な姿を確認して、私も出かけるんです」
「仲良しで何よりだ」
「魚住さんも、いってらっしゃい」
「おう。いってきます」
強面な顔に、はにかんだ笑みを浮かべて魚住も出かけて行った。
「姫、随分のんびりだったわね。タカシ君とよっぽど楽しい話をしたのかしら」
「ううん。魚住さんと挨拶してたの」
珠子はチーズトーストを頬張り、リンゴジュースで流し込んだ。
「あら、魚住さんに会ったの」
「そう。相変わらず背が高かった」
「カシワより高いんだものね。スーツ姿が決まってるわよね、彼」
「うん。顔もキリッとしてるし、ちょっとモデルさんみたいだった。カシワ君に雰囲気が似てるね。ってことは、カシワ君もモデルっぽいってことか。ところで魚住さんは何のお仕事をしているの?」
「介護関係のレンタル事業っていうのは聞いてるんだけど」
「へえ。介護って、お年寄りや体の不自由な人のためのお手伝いだっけ」
「そうね。姫、少しスピードを上げて」
「はい。ごちそうさまでした。歯を磨いてくる」
珠子が洗面所に行き、操は食器を片づけながら、かつて入居者の80歳代後半のおばあさんに、魚住がとても親切にしていたのを見かけてほっこりしたのを思い出した。上背のある体を小さく屈めて、小柄なおばあさんの手を引いて歩く魚住に感心したのだった。
操は秘かに彼のファンである。と言うか、操は『ハイツ一ツ谷』の入居者はみんな善い人の集まりだと思っている。大家の彼女が、入居希望時に必ず面談をして、相手の人となりや内面を感じ取って判断をしている。だから、ここの住人のことが好きなのだ。そのせいか、今まで何人か部屋を退去したのだが、その時はとても寂しい気持ちで送りだした。そしてその後のその人たちが新しいところで元気に幸せに暮らして欲しいと願っている。
「ミサオ、用意できたよ」
珠子が身支度を調えて操の前に立った。
「あら、今日は秋冬の制服にしたのね」
珠子は自身があまり好きではない臙脂色の制服を羽織っていた。
「うん。さっき外で立ってたら思ったより風が冷たかったの」
「いつの間にか季節は変わっているのね」
「でも、明日はまた暑くなるかも知れないんでしょ」
「そうなのよね。お互いに体調を崩さないようにしないとね」
そんなことを話ながら二人は幼稚園に向かった。
ばら組の教室では、いつもの三人が集まってブロックで建物らしきものを作りながら、昨日話していたことを親に伝えた結果について報告し合った。
「珠子ちゃん、葵ちゃん、おれさ昨日お母さんに『フラワ・ランド』におれたち三人だけで行きたいって言ったんだけど、速攻ダメって言われちゃった」
賢助が落ち込みながら言った。
「私のママも…特にパパが絶対ダメだって」
葵も両親に反対されたと残念がった。
「私もミサオからダメって。葵ちゃんも賢助君も、お父さんお母さんに絶対ダメって言われてるわよって」
自信たっぷりに操が言ってたと、珠子が報告した。
「おれたち、しっかりしてるよな」
賢助は子ども扱いしないで欲しいと訴える。
「そうだよね。知らない人から物をもらわないし、ついて行かないもんね」
珠子も、大人はわかってないなぁと言った。
「でも、私、前に変なおじさんにトイレに連れて行かれて怖い思いをした。丁度、珠子ちゃんと孝君が来てて助けてもらえたけど、やっぱり体が小さいと簡単に引っ張られて連れて行かれちゃう」
葵が、その時のことを思い出して小さな声で言った。
「確かに、おれたちがしっかりした気持ちを持っていても、体が小さいから抵抗できないな」
賢助は指相撲ならお父さんに負けないんだけどなと言った。
「体が小さいって、損だよね」
珠子も残念な気持ちになった。
翌日の朝、孝にいってらっしゃいを言って見送った後、珠子は二日続けて魚住と顔を会わせた。
チャンス!と思って珠子はキラキラスマイルで挨拶をした。
「魚住さん、おはようございます」
「おう。おはよう」
「魚住さん、どうしたら魚住さんみたいに大きくなれますか?」
「突然どうしたの?」
「簡単に知らない人に連れ去られないように、大きくなりたいんです。大人みたいに。そうなれば、お友だちだけでお出かけできるから」
珠子の真面目な顔を見た魚住は彼女と向かい合うとしゃがんで、
「俺だって珠子ちゃんぐらいの時は小さかったよ。背の順で並ぶと前から三番目だった」
「そうなの」
珠子は小さな魚住を想像できなかった。
「そうだ。背がぐんと伸びたのは中学生になってからだよ。だから今はまだ、出かける時には大人と一緒に出かけような」
「はい。わかりました」
珠子が落ち込んだ声を出す。
「体が大きくなって大人になると、自分の責任で行動しなくちゃならないんだ。でも、珠子ちゃんぐらいの時は親や家族にいっぱい頼っていっぱい甘えていられる。俺からすると、今の珠子ちゃんが羨ましいよ」
と言いながら魚住は立ち上がり、珠子の頭に軽くポンと手を置いた。
「なりたくなくても、おれたちは大人になっちゃう。子どもには戻れないから、今の珠子ちゃんを楽しみな。じゃあ、行ってくる」
手を振る魚住に
「いってらっしゃい」
珠子もおもいきり手を振った。