これからよ
操は交番のカウンター越しに見た上田聖子に、暫くの間声をかけられなかった。
勤務先の営業部に籍を置く聖子は、いつも清潔で整った身なりをしていた。
操が早い時間に玄関前の通路を掃いていると、時々早朝出勤の聖子と顔を会わすことがある。髪の毛をキリッと一つに纏め、薄化粧で特に眉のラインが自然な形に調えられた彼女を、挨拶をしながら綺麗な人だなと操は思っていた。
だが、今、目の前で体を丸めてうずくまるように座っている聖子は、ボサボサの髪にスウェットの上下で、まるで寝起きのまま外に出かけたみたいに見えた。
「上田さん」
操が声をかける。が、返事をせず彼女は下を向いたままだった。
「聖子さん」
操がもう一度声をかける。
少し間を置いて彼女が顔を上げた。
「聖子さん、一緒に帰りましょう」
操の声に、聖子がこちらをゆっくりと向いて涙をこぼした。
書類を広げ、警官が指示する欄に記入をした操は、お辞儀をして聖子と共に交番を後にした。
「大家さん」
聖子が消えそうな声で操をちらりと見る。
「はい」
操も聖子に顔を向けた。そして、
「大丈夫だから元気を出して」
聖子の背中をそっと擦った。
アパートに戻った二人は、一旦、操の部屋に入った。
「体を楽にして。お腹空いてない?」
聖子をソファーに座らせて、操は温かい緑茶を淹れローテーブルに湯呑みを置いた。それから、冷たいおしぼりを手渡す。
「いっぱい泣いたのね。涼やかなあなたの目元が腫れちゃってるわ。これで冷やして」
「ありがとうございます」
おしぼりを受け取った聖子は泣き腫らした瞼に当て…またあふれ出た涙を隠した。
「大家さん、ご面倒をおかけしました」
小さな声で言いながら聖子は深く頭を下げた。
「やめて。あなたが頭を下げなきゃいけないのは、咲良ちゃんよ」
操が首を横に振る。
「咲良ちゃん」
「そう。昼間、咲良ちゃんはあなたと連絡が取れないって心配して私のところに来てくれたの」
「そうなんですか」
「ええ。昨日からあなたの様子がいつもと違うのを気にかけて、彼女はとても心配していたわ」
「そうなんですね」
「それで、咲良ちゃんと一緒に、あなたの部屋にちょこっとお邪魔しました。もし倒れていたら大変なので」
「心配をおかけしてすみません」
「それも咲良ちゃんに言うべきことだわ。でも、差し支え無ければ教えてくれる。何があったのか。もちろん無理にとは言わないけど」
聖子は大きく深呼吸をひとつして、ポツリ、ポツリと話をした。
聖子には、つき合って五年になる彼氏がいた。三十代後半にさしかかった彼女としては、そろそろ将来のことを考え初めていた。しかし彼にとって聖子は何人もいるガールフレンドのひとりに過ぎなかったようだ。しかも、彼が先日婚約をしたらしい。その相手は残念ながら聖子ではなかった。そのことを知らされたのが土曜日のことだった。
「私、日曜日に咲良ちゃんと出かけて、彼の誕生日プレゼントを選ぼうと思っていたんです」
「そうか。土曜日に突然婚約の話を聞かされたんじゃ、体調も崩れちゃうね」
「いい歳をして恥ずかしいです。勝手に勘違いしてひとりでいい気になって、バカですね、私。五年間も都合のいい女をしていたんです」
聖子は自分に対して鼻で笑った。
そんな彼女を見て操はきっぱりと言った。
「私はあなたが、そんな男と身を固めなくて良かったと思うわ。その男の奥さんになる女性が一番不幸ね。うん。結婚してから夫の本性を知ることになるなんて、クワバラクワバラだわね」
操の言い方が可笑しかったのか、聖子はクスッと明るく笑った。
「大家さんって、面白いことをおっしゃる。確かに長いこと騙されたけど、そこから抜けられた私はラッキーだったのかも知れません」
「そうよ。そして、あなたはこれからよ」
「はい」
すっかり気持ちが落ち着いた聖子は立ち上がると
「大家さん、ありがとうございました」
お辞儀をして笑顔を見せた。その笑みが心からのものであるのを感じた操は
「発散したい時は、いつでも愚痴りにいらっしゃい。それから必ず咲良ちゃんに、感謝を伝えてね」
と言って、聖子を送りだした。
「はい。おみなさい」
靴を脱いだ時とは別人のような前向きな気を発しながら彼女は靴を履き、操の部屋を後にした。
操は、柏のところで預かってもらっていた珠子を迎えに行った。
「こんばんは。姫。迎えに来たよ」
インターホンに向かって話す。玄関の扉が開いて孝が顔を出した。
「おばあちゃん、いらっしゃい。あがって」
操の手を取って奥に引っ張って行く。
キッチンでは月美がおにぎりを用意していた。
「お義母さん、ごはんまだですよね。どうぞ召し上がって」
「うわぁ、嬉しい!」
操はテーブルに着くと
「いただきます」
大きく口を開けて、海苔を巻いたばかりのおにぎりをパリッとかぶりついた。
「おいひー」
頬張ったまま感激の声を上げた。
「母さん、タマコと同じだな」
半分呆れて半分さすがと思いながら柏が操を見ている。
味噌汁をふうふうとしながら口にして、熱っと舌を出しながら、
「姫は?」
と聞く操に
「ソファーで寝てるよ。タカシがあいつのほっぺたをやたらとツンツンしてる。本当はチューしたいんだぜ」
柏が優しい顔で笑う。
「お義母さん、疲れてるんじゃ無いですか。ちょっと休憩してから、ウチでお風呂入っちゃいません?すぐ入れますから」
ちょっとイイ入浴剤が入ってますよと、月美が言った。
「じゃあ、入っちゃおうかな」
「そうしなよ。タマコが母さんのパジャマとか取りに行ったんだ。脱衣所のカゴに入ってるよ」
柏も勧める。
「ありがとう。入らせてもらう」
月美が淹れてくれたお茶を啜りながら、操はひと息ついた。