操、モヤモヤする
さて、暴れん坊の元太に会いに行くか。
操は洗濯と部屋の掃除を終わらせると『ぶるうすたあ』のプリンを持って部屋を出ようとした。
『ぶるうすたあ』は商店街の中にある手作り洋菓子が美味しいと評判のカフェである。そこの看板犬、ベドリントンテリアのプリンちゃんは、珠子と孝の友だちだ。
操がサンダルをつっかけようとした時、インターホンが鳴った。
「はい」
操が返事をする。モニターに映っていたのは205号室の金子咲良だった。操はすぐに玄関扉を開けた。
「咲良ちゃん、こんにちは。どうしたの?」
「大家さん、上田さんと連絡がつかないの」
咲良は焦っているせいか、とても早口だった。
「上田さんて、206号室の上田聖子さん?」
「はい」
上田聖子は、高校生の金子咲良の隣に住んでいる。
彼女たちの実家が近所で、咲良の母親と聖子は仲が良かったので、咲良のお目付役を担っていた。
操は玄関に咲良を入れて彼女の話を聞いた。
「咲良ちゃんのわかってる範囲で詳しく話して。そう言えば、咲良ちゃん学校は?」
「今日は受験組の説明会で、私はもう試験がないので休みなんです。さっきの話ですが、先週、聖子さんと出かける約束をしたんです」
「先週のいつ?」
「水曜日です。昨日、つまり日曜日に駅向こうのショッピングモールに行こうって。それで、午前九時半頃迎えに行くねって言ってくれて」
「それで?」
「でも、時間になっても来なかったから、私が聖子さんの部屋を訪ねたんです」
「ええ。そしたら?」
「その時は聖子さん、部屋にいたんですけど、気分が悪くてごめんなさいって」
「咲良ちゃんに連絡ができないぐらい具合が悪かったのかしら」
「ただ、ただ、謝るだけで」
「そう」
「昨日のことがちょっと気になったので今朝、電話をしたんですけど出なくて。それで聖子さんの部屋を訪ねたんです」
「でも、応答が無かったのね」
「はい」
「わかったわ。一緒に行ってみましょう」
「お願いします」
操は、206号室の合鍵を持って咲良と共に、まず小さなロッカーのような郵便ボックスに向かった。206のステッカーが貼られたボックスにはいくつかの郵便物が入っているのが見えた。
「今日は取りに来ていないわね」
二人はアパートの二階に上がり、206号室の前に立った。
インターホンを押してみる。が、応答はない。
操は玄関扉を凝視した。
「大家さん?」
咲良が、じっと扉を見つめる操に声をかけた。操は返事をしないで見つめ続ける。何の気配も感じない。
「上田さん、鍵開けますね」
インターホンに話すと、操は鍵をひねり扉を開けた。
窓が閉め切られているせいか空気は籠もっていたが、特に気になる匂いはしない。
「上田さーん」
操が奥に向かって大声で呼びかける。返事はない。
「お邪魔します」
操と咲良は部屋にあがり、ぐるりと見渡す。トイレと浴室、クローゼットの中を確認したが問題はなかった。もちろん荒らされたり争った跡もない。
「ただのお留守みたいね」
「大家さん、ベッドサイドの棚にスマホがある」
「あら、咲良ちゃんの電話に出なかったのは、スマホ不携帯だったからみたいね」
操と咲良は顔を見合わせてほっと息を吐き、とりあえず一安心な気持ちになった。
「大家さん、私の思い込みですみませんでした」
と謝る咲良に、聖子の部屋を出て鍵を閉めた操は
「こちらこそ、上田さんを心配してくれてありがとう。これからも上田さんのことに限らず気になることがあったら、遠慮しないで教えてくださいね」
笑顔で彼女の肩に手を添えた。
咲良と別れた操は、合鍵をしっかりしまい、プリンを持って鴻と元太を訪ねた。
「コウちゃん、こんにちは」
操が声をかけると、玄関扉が開いて孝と手を繋いだ元太が出迎えてくれた。
「元太、相変わらずタカシ君ラブなのね。姫がヤキモチを焼いてなぁい」
操が言うと
「破裂しそうなくらい妬いてます」
子どもたちの後ろから鴻が笑いながら出てきた。操もつられて笑う。
「コウちゃん、凄く元気そう」
「はい。とっても」
充実した顔の鴻を見て、彼女と珠子の絆が深まったのを操は感じた。
「あとで食べましょう」
プリンを鴻に渡し操が奥のソファーに座ると、珠子が隣に来た。
「ミサオ、疲れてる?」
心配そうに顔を見る珠子に
「ちょっとね」
操は力なく笑う。そして暫く考え込むと、上田聖子の職場に電話をした。
──はい。お電話ありがとうございます。株式会社クロスでございます。
「私、神波と申します。営業部の上田聖子さんにお取り次ぎ願いたいのですが」
──神波様ですね。少々お待ちください。
オルゴールのようなメロディーが流れ、やがて先程と同じ声が聞こえた。
──お待たせしました。営業部の上田は本日休暇をいただいております。
「前からお休みする予定になっていたのでしょうか」
──申し訳ございませんが、そこは私にはわかりかねます。ご伝言でしたらお受けしますが。
「いえ、結構です。ごめんください」
操は通話を切ると考え込んだ。
「ミサオ?」
珠子が覗き込む。
「大丈夫よ姫。私、怖い顔してた?」
「うん。眉毛の間に深い谷ができてた」
珠子が自分の眉間を指で摘まんで操の顔真似をした。
「やだーっ」
皺を伸ばしながら、操は心配してくれる孫娘に笑いかけた。
それからは、元太が孝を振り回しているのをみんなで大笑いしながら見守った。
夜、操のところに駅前の交番から連絡が入った。
──そちらの住居者で上田聖子さんという方はいらっしゃいますか。
「はい、ここの入居者さんです。上田さんがどうかされました?」
操をモヤモヤした気持ちを抱えながら話した。
──駅のホームでフラついて歩いたので危ないと判断して保護させてもらいました。
「そうでしたか。連絡いただいてありがとうございます。すぐ伺います」
操は通話を切ると、柏の部屋に顔を出して珠子を見てくれるように頼み、駅前交番に向かった。
「すみません。連絡をいただいた『ハイツ一ツ谷』の神波です」
交番のカウンター越しに声をかけると、その奥に一瞬誰だかわからない状態の上田聖子が、背中を丸め俯いて座っていた。