天使と悪魔
両膝に貼られた大きな絆創膏を見て珠子はため息を吐いた。
「ミサオ、今日は長ズボンをはこうかな」
「それもいいんじゃない。でもまだ暑いから、鬱陶しいかもね、長ズボン」
操に言われて珠子は考えた。
「やっぱりハーフパンツにする」
「そう。長いの短いのどちらでも良いけど、そろそろ出かける準備をしようね」
「うん」
「さ、ごはん食べましょう。今朝は…」
「ホットケーキだ!」
珠子は漂う匂いをおもいっきり吸い込んでにっこり笑った。
とろけたバターの上からハチミツをたっぷりかけて、珠子はホットケーキにかぶりついた。
「姫の食べてる時の顔、最高ね」
操が吹き出す。
口の周りについたハチミツを舌を出してペロリと舐めると
「ミサオ、美味しい」
珠子は、すっかり大きな絆創膏のことを忘れてしまったようだ。
「食べ終わったら、歯を磨いて」
「うん」
洗面所に向かった珠子を見つめて、今日も可愛い!と孫娘にベタ惚れの操だ。
ばら組の教室では、運動会の30メートル走の順番を決めていた。珠子は大沢賢助をはじめとする四人と一緒に走ることになった。
「珠子ちゃんと一緒なんて楽しみだね。ってことは、タカシ兄ちゃんもおれたちが走るの注目するね。よし、頑張るぞ!」
そう張り切る賢助とは対照的に、
「そうだね…頑張ろうね…」
珠子は元気なく言った。
「あれ、珠子ちゃん、足どうしたの?」
賢助に指摘されて、
「うん。昨日転んだの」
ばつが悪そうに珠子が答えた。
「大丈夫?運動会で走れる?」
心配そうに両膝を見つめる賢助の様子に、珠子は思った。そうか、これを理由に走るのを棄権すればいいのか。そして彼女はわざとらしいくらい悲しそうな顔を作って言った。
「結構痛いから、走れないかも」
「そうか。おれが中山先生に言おうか。珠子ちゃんは足を怪我して痛がってるって」
心配してくれる賢助を見て、珠子の中の悪魔と天使が戦いを始めた。
「賢助君、ありがとう。あとで私が先生にお話する」
「わかった。無理するなよ」
そう言って賢助は園庭に出て行った。
その場に残った珠子は悩んだ。正直、走れなくはない。膝も痛みよりは治りかかった痒みを少し感じていた。しかし、見た目は痛々しい。走れないと訴えれば認めてもらえるだろう。だが、自分を応援してくれる操や孝の顔が浮かぶ。
珠子は担任の中山ヒロミのところへ行った。
「珠子ちゃん、何かな」
こちらを見つめて先生が聞いた。
「あのね、私、足を怪我しちゃって…」
「あら、両方怪我しちゃったのね」
中山先生はしゃがんで珠子の膝を凝視する。七センチ角程の絆創膏にはうっすらと血が滲んで、内側で体液を吸収しているのかポコッっと所々膨らんでいる。結構痛々しく見えた。
「歩くのは辛くないの?」
「はい、大丈夫です」
「運動会は参加できるかな」
「はい。でも走れるかわからないです」
そう返事をした珠子は心の中で舌を出した。
「無理して走らなくても大丈夫よ」
「はい」
珠子の中の悪魔がニヤリと笑っている。が、
「ダンスも膝の曲げ伸ばしが激しいから見学にしましょうね」
続けて言った先生の言葉に焦ってしまう。珠子は、ダンスをやりたいのだ。
「せ、先生、あの…土曜日には傷も良くなってるかも知れないから、走るのも踊るのも出られるかも知れないです」
早い口調で話す珠子に
「わかったわ。当日、体調を教えてね。それから無理をしないでね」
中山先生が優しく言ってくれた。
「はい」
返事をしたものの、珠子の中の悪魔と天使が揉めていた。
走らなければ恥をかかないで済むわよ、と悪魔が言う。
でも本当は走れるのよね、と天使が囁く。
他のお友だちは走るのが苦手でもちゃんと参加するわよ。あなたは逃げるの?大好きなダンスもやらないの?と天使が訴える。
上手いこと誤魔化してダンスだけ参加すればいいじゃない、と悪魔が都合よくなるように誘う。
どうしよう。珠子はため息を吐いた。