珠子、転ぶ
「賢助君」
ばら組の教室で珠子は友だちの大沢賢助に声をかけた。
「珠子ちゃん、何?」
「あのさ、この間ウチに来た時、賢助君はタカシに速く走る方法を聞いてたじゃない」
「うん。孝兄ちゃんに教えてもらった」
「どうすれば速く走れるの?」
「珠子ちゃん、聞いてなかったの?」
「駆けっこに興味がなかったから、ちゃんと聞いてなかった」
「急に興味を持ったの?」
「う…ん。私は運動会で走らなくていいんだと思ってたけど、昨日中山先生が言ったじゃない。ばら組は全員30メートル走に参加しますって」
珠子は先生の話に打ちのめされたのだ。
「そうだったね。おれは走る気満々だからさ、絶対一等賞を取るんだ。だから孝兄ちゃんに速く走るコツを聞いたんだよ」
「できれば走りたくないんだけど、せめてビリにならないようにしたいの」
もし、転んだら恥ずかしいよなと珠子は思った。
「腕を一生懸命振るといいって言ってたよ。あと、顎を引いて姿勢を真っ直ぐに、キョロキョロしないで前を見るんだって」
賢助は身振り手振りで教えてくれた。
「それって、元々足の速い人が、もっと速く走る方法でしょう」
「そんなことないよ。珠子ちゃんも腕を振ってみなよ。自然と足もよく動くようになるよ」
「わかった。やってみる。賢助君ありがとう」
「お互いに、頑張ろうな」
賢助が親指を立てて笑顔で言った。
珠子はため息を吐きながら、やっぱり私は速く走れないなぁと落ち込んだ。
「珠子ちゃん、どうしたの?」
永井葵が顔を覗き込む。
「葵ちゃんは走るの速いの?」
珠子が聞くと、彼はしっかり頷いた。
「私は駆けっこ速いよ。多分、賢助君より速いと思う」
いつも控えめな葵が、自信を持って言う。
「えっ、賢助君より?」
「うん。走るのは自信があるんだ」
葵は笑顔を見せた。彼のお淑やかなイメージからは想像できない意外な一面を知った珠子は羨ましく思った。
「いいなぁ」
「珠子ちゃんはどうなの?」
「全然ダメ。運動会、嫌だな」
「珠子ちゃんはダンスが上手だから、それを頑張ればいいんじゃない。私は走るのは好きだけどダンスは得意じゃないよ」
「そうか。できることを頑張ればいいんだよね」
珠子は少し前向きな気持ちになれた。
お帰りの時間。
いつものように迎えに来た操と手を繋いで、
「中山先生さようなら」
「珠子ちゃん、また明日」
担任と挨拶をして幼稚園を後にした。
「ミサオ、今日ね、葵ちゃんに励ましてもらったの」
「ん?ああ、徒競走のことね」
「そう。あとね、賢助君に速く走る方法を教えてもらったんだ」
珠子は繋いでいない方の手を、おもいっきり前後に振った。
「それって、タカシ君が賢助君に教えてたことね」
「うん。あの時は私、運動会で走ると思ってなかったから、ちゃんと聞いてなかったの」
そして、アパートの敷地に入ると、
「ミサオ、見てて。教えてもらったように走ってみる」
珠子は、斜め掛けした黄色いバッグを肩から取って操に渡し、建物の手前から奥に向かって両肘を曲げて前後に振りながら走った。
そして──おもいっきり転んだ。
「姫!」
操が慌てて駆け寄る。
「姫!」
見事にうつ伏せで大の字に倒れている珠子に、もう一度呼びかける。ゆっくりと上体を起こし立ち上がった彼女の両膝から血が流れている。暫くの間、放心状態だった。
敷地の玄関側の地面は駐車場と繋がっているので、コンクリートで覆われていて転ぶと結構なダメージを受ける。珠子の両膝の柔らかな皮膚がべろっと擦り剥けて痛々しい状態になっていた。
「うわぁーん」
やがて珠子は、痛さと恥ずかしさで号泣した。
「姫、早く手当てしましょう。歩ける?」
操が珠子を見ると、珠子がコクンと頷く。
「膝以外に痛いところは?」
操の問いに彼女は微かに首を横に振った。
「わかった。お部屋へ入りましょう」
部屋にあがってすぐに、浴室で膝を洗ってもらった珠子は、水気をタオルで押さえ取って、消毒液を振りかけられソファーの上に足を伸ばして座った。
派手に転んで両膝とも広範囲に擦り剥けているので、ガーゼをサージカルテープで留めた。
「姫、あまり動かさないようにして。ガーゼが擦れると痛いからね」
「うん。ごめんなさい」
珠子は元気なく俯く。
「謝ることはないわ。せっかく頑張って腕を振って走ったのにね。転んだのは残念だけど、結構速く走ってたわよ」
操が言うと、
「ホント?ホントに!」
珠子が顔を上げた。
「ええ、いい感じで走ってたわよ。多分、持久力がなかったのね。気持ちは前に進んだけど、足が思うように動かなくなっていたように見えたわ」
「そうか。私、体力ないものね」
落ち込んだ声の珠子に操がソーダ味のアイスキャンディーを渡した。
「いただきます」
棒付きアイスを囓りながら
「ミサオ、土の地面なら上手く走れるかなぁ」
彼女を優しく見つめている祖母の目を見た。
「そうね。焦らないで、自分は走れるって気持ちで臨んでみたら。それと、もし最下位になっても、途中で転んだとしても走れるのなら最後まで走りきるの。それが大事だと思うわ」
「うん」
操は珠子が食べ終わったアイスの棒を受け取るとキッチンに捨てに行き、隣の月美へ連絡を取った。
暫くすると、
「タマコ、大丈夫か」
リレーの練習を終えて帰宅した孝が部屋にあがって来た。
「えっ、タカシ」
両膝のガーゼを見られて珠子が慌てる。
「タマコ、動くな」
孝が珠子の動きを制する。
「タカシ君、悪いけど姫と留守番をお願い。私、大きな絆創膏を買って来るわ」
操が頼み、孝は大きく頷いた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
操が出かけると、孝は珠子の足元に立った。
「両足とも怪我をしたのか」
「うん。タカシが賢助君に教えた方法で走ってみたの」
「どこで?」
「玄関の前」
「コンクリートの上で転んだんだ」
「うん。おもいっきり」
「急に走るからだよ」
「うん」
「タマコ、おれは走るのが得意だから、更にどうすればもっと速く走れるか考えて練習をしてる」
「うん」
「おまえは、普段走らないから、まず準備運動をして体を動きやすくしてから走らないと、こうやって怪我をしちゃうんだ」
「うん」
「格好良く走る姿をおれに見せようとしてくれたんだよな」
「うん」
「わかった。その気持ちは受け取ったよ。徒競走は最後まで走りきれればそれで充分だよ。得意なダンスで綺麗な動きを見せてくれ。おれ、楽しみにしてるよ」
「うん。わかった」
珠子は明るく返事をしたが、正直、深く落ち込んだ。