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久しぶりの庭

「姫、心の準備はいい?」


操が様子を窺うように珠子の顔を見る。


「ミサオ、私、大丈夫だよ」


珠子は深呼吸をして、心を落ち着かせた。

二人は南側の掃き出し窓から庭に出た。

操はサンダル履きだが、珠子は黄色い長靴を履いている。二年ほど前に買ってもらったこのお気に入りの長靴は、最初かなり緩めで寒くなくても厚手の靴下を着けてから履いていたが、今はかなりきつくなってきたので、おそらく今日が最後の出番だなと彼女は思った。


「姫、長靴きつくない」


操も珠子の足の爪が圧迫されていないか気になるようだ。


「ちょっと押されてる感じがする」


「そうよね。履いていてちょっとでも痛かったら言ってね。新しいのに履き替えましょう」


「うん。わかった。それより何にも飛んでないよね」


珠子は周りを、特に104号室前の素敵なガーデニングスペースの辺りを目視した。

操も一緒に芝生の庭を見回して言った。


「大丈夫よ。それじゃ行こうか」


車も不審者も通らないアパートの庭だが、珠子は操としっかり手を繋いで建物と平行に歩いた。柏の部屋の前を通り過ぎ、103号室の前を通り、本当はじっくりと見たい104号室前に作られた二坪ほどのガーデニングスペースを回り込んで更に進むと、108号室の住人の名取丈が作っている家庭菜園にたどり着いた。


「名取さん、こんにちは」


珠子は天敵の蝶と遭遇することなく、ここに来られたので元気に挨拶した。


「珠子ちゃん、ちょっと会わない間にお姉さんになったな」


名取に言われて珠子はなんだか擽ったい気持ちになった。


「神波さん、どうも」


「名取さん、おじゃまします」


名取と操が挨拶を交わした。


「そう言えば、少し前に向こうの花壇の辺りで珠子ちゃん悲鳴をあげて倒れただろう。助けに行こうとしたんだけど、ここから花壇まで結構距離があって、俺なんかより早く少年が助けてた。何があったんだい?」


「あの時は、104号室の杉山さんが新しく作り上げた花壇を珠子が見に行ったんですけど、二頭の大きな黒い揚羽蝶に追われて、倒れたんです。あの子は蝶が大の苦手で」


操が当時の経緯を説明をすると、御年80歳の名取は少し驚いた顔をした。


「珠子ちゃんは、蝶がダメなのかい。噛みついたり刺したりするわけじゃないのになぁ」


「羽の鱗粉が怖いみたいです。物心がついた頃、蛾で嫌な思いをしたんです」


「ほう」


「あの子は石ころや貝殻が好きなんですけど、この庭で石だと思って掴んだのが蛾だったんです。小さな手でぎゅっと握ってしまって、開いてみたら手のひらが粉々になった蛾の鱗粉まみれになって、相当ショックだったみたいです」


「なるほどな。怖いものってのは人それぞれなんだね」


名取はしみじみと言った。この年になると、大概のものは気にならなくなるが、若い人は苦手なものを克服するのが難しいんだろうなと思った。


「名取さん、こんなに雑草取れました」


珠子がぱんぱんに膨らんだビニール袋を見せに来た。


「おお、頑張ったな。ありがとう」


名取が嬉しそうな顔を見せると


「もう少し抜いてきます!」


珠子は空のビニール袋を手にして、畑の残り4分の1の雑草取りを始めた。


「神波さん、珠子ちゃんは本当に可愛いな」


汗を拭ったせいか額に土をつけて一生懸命草取りをしている珠子を見つめて名取が言った。


「ありがとうございます。私も全く同感です」


操も頷いた。

そして、畑全体の雑草を取り終えた珠子が汗だくで戻ってきた。

操は保冷バッグからよく冷えた麦茶のペットボトルを取り出し、一本は名取に一本はキャップを開けて珠子に渡した。

珠子は美味しそうに麦茶を飲んで、ふうーっと息を吐いた。その様子を見つめながら、名取も麦茶を飲み


「珠子ちゃん、好きな野菜を持ってっていいよ」


と言いながら植えられた作物の前に立った。

喉が潤った珠子は名取の手を取り


「名取さん、食べ頃のを教えてください。ナスとトマトが欲しいです」


と言った。


「そうだな、今年は日射しが強すぎて少しひび割れしてるけどこのトマトは甘いよ」


名取が、これとこれとこれがいいと教えてくれて、珠子がそれを収穫した。保冷バッグの中にたくさんのトマトとナスとコリンキーなどを山盛り入れてお礼を言った。


「名取さん、ありがとうございました」


「こちらこそ、助かったよ。暑い中での草取り、ありがとう」


手を振る名取に、珠子と操も手を振り返してその場を後にした。

自分たちの部屋に戻ると、


「姫、シャワーを浴びてらっしゃい」


採れたての野菜をシンクに置きながら操が言った。


「はーい」


珠子が浴室の方に消えると、野菜を洗って水気をよく拭き取った。トマトを一つくし切りにして、冷蔵庫に入れた。あとは使う分を残して、新聞紙に包みビニール袋に入れると野菜室にしまった。

シャワーを浴びてサッパリした珠子が戻ってくると、麦茶と冷蔵庫で少しだけ冷えたくし切りトマトに塩を振ってテーブルに置いた。


「このトマト、さっき私が採ったやつ?」


珠子が聞くので、


「そうよ。塩を振ってあるから食べて塩分補給して」


と言いながら、操は冷たい濡れタオルを渡した。珠子はそれを顔に当てて


「あー、気持ちいい」


幸せそうな声を出した。

フォークでトマトを食べると


「しょっぱいけど甘ーい。美味しい」


手が止まらなくなり丸々一個をあっという間に平らげた。


「今日は、姫の天敵に遭わなくて良かったわね」


「うん。本当に良かった」


「お昼は何にする?」


「さっき採ったナスがいっぱいの焼そばがいい」


「ナス入りの焼きそば?」


「うん」


「わかった。それじゃ、できるまでソファーで横になってなさい」


「はーい」


珠子は寝室から枕とハーフケットを持ってくると、ソファーの上ですぐに寝息を立てた。

その寝顔を見ながら


「姫、久しぶりに庭に出られて良かったわ」


操はそっと頭を撫でた。

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