珠子0歳1カ月
神波鴻は眠れなかった。
珠子と鴻が産院から戻って半月、体は怠く瞼も重くて眠りたいのに頭の中がそうさせてくれなかった。
十月の空気はぐっすり眠るのに丁度良いはずなのだが…。
時刻は午前二時、自分の左側から夫の源の安らかな寝息が聞こえる。隣にいるのは久しぶりだ。右側に目をやると真新しいベビーベッドが見える。そこには夫婦の大切な小さな小さな娘が横たわっている。そろそろ授乳の時間だ。
鴻がゆっくり起き上がると「あー、あー」珠子が夫の眠りを妨げない程度の声を上げた。
ベビーベッドを見下ろすと常夜灯の薄暗がりの中、珠子の大きな黒目が鴻を見つめている。まだほとんど視力が無い筈なのに彼女の目はしっかり鴻を捉えていた。
小さな我が子をそっと抱き上げ自分が寝ていたベッドに腰を下ろす。パジャマの釦を外し乳首を小さな口に含ませる。母乳を静かにしっかり飲み始めた。
その間ずっと珠子の目は鴻を捉えて視線が痛いほどだった。お腹が満たされて、げっぷをしたらオムツを替えてベビーベッドに戻した。
「お休み、タマコ」
鴻が言うと珠子はすぐ目を閉じた。
鴻もふーっと深いため息をついて自分の寝床に戻ると瞼を閉じた。しかし、やはり眠ることはできなかった。
現在生後1カ月の珠子は難産の末ようやく生まれた大切な子どもだ。本当に可愛く愛おしい。けれど同時に恐ろしくも思った。
なぜなら夜泣きは勿論、普段もほとんど赤ちゃん特有のあの泣き声を上げたことが無かった。ただ大きな黒目でじっとこちらを凝視する。全て見てるよと言わんばかりに見つめている。その眼力に鴻は生気を少しずつ吸い取られている感じがするのだ。
源に話しても
「育児疲れじゃないのか。俺があまり協力できてなくて悪いな」
と言われてしまう。それは仕方ないのだ。
彼は単身赴任で長い間家を空ける。それでもできるだけ時間を作って帰るようにしてくれている。
早朝、授乳のため重い体を起こすと源も起き上がり
「おはよう。お疲れ」
そう言って鴻の肩を揉んだ。
「ゲンちゃんありがとう。あー楽になった」
「ねえ、母さんに手伝ってもらおうよ。俺言っとくよ」
源が鴻の肩に顎を乗せて囁いた。
「ありがとう。お義母さん、ちょくちょく声を掛けてくれてるの。様子も見に来てくれる。うふっ、もっと甘えちゃおうかな」
「甘えろ甘えろ」
昼過ぎに操がやって来た。
「コウちゃん、こんにちは。上がるわよ」
珠子を抱いた鴻が声のする方を向いた。
「どうぞどうぞ、お義母さんすみません」
玄関に置かれたアルコールジェルで手を消毒しながら操が居間に入ってきた。
「な~に言ってるのよ。ばあばは姫に会えるのが嬉しいの。源は出掛けたの?」
「はい。プレゼンのデータを向こうでまとめないといけないらしくて、さっき出て行きました」
「コウちゃんお昼食べた?ピザでも取ろうか」
「ご飯は食べました。珠子の授乳も済ませたところです。お茶淹れますね」
「いいのいいの、飲みたかったら勝手に淹れるから、とにかく横になりなさい。姫は私が見てるから」
「ありがとうございます。お言葉に甘えてちょっと休んできます」
「うん、しっかり昼寝しなさい。姫、ばあばですよ。こっちにいらっしゃい」
操が手を差し出して珠子を受け取った。
珠子は瞬きもせず操をじっと見つめていた。
三時間ほどして鴻が居間に戻ってきた。
「お義母さん、ありがとうございました。こんなにしっかり寝れたの久しぶりです」
「本当に寝れたの?」
「はい。体が少し軽くなりました」
鴻は冷蔵庫から麦茶を出しながら言った。
グラスに注いで居間に持っていくとテーブルに置いた。
「お義母さん、ずっと抱っこしてくれてたんですか。揺り籠に寝かしておいても良かったですけど」
「こんなに可愛い姫もっと長い時間抱いていたいわ。コウちゃん授乳したら、また横になりなさい。オムツはちょっと前に替えたし」
操は珠子を鴻に渡し、麦茶を飲んだ。
「お義母さん、聞いて欲しい事があるんです」
鴻は授乳をしながら言った。
「どうしたの」
「あの…、この子の目が怖いんです。全く夜泣きもしないし、ぐずる事も無いんですけど、まだはっきり見えていない筈のこの黒目がちの澄んだ目でずっと見つめられると平常心を失いそうになるんです」
「確かに私が抱っこしている間凄く見つめられたわね。乳児健診は?」
「来週初めて行きます」
「そうか。姫の体に問題がなければ、できるだけ気にしないようにするのが良いかな。精神的に恐怖や不安を感じるのはコウちゃんの寝不足と疲労が原因かもしれないから…ねえ、朝から夜寝る前まで私ここにいても良い?迷惑でなければ」
「いいんですか。一人でいるのつらいので…お願いします。私、もちろんこの子を愛してるんです。でも…」
「大丈夫よ、コウちゃん。一緒に姫を見ましょう。丁度おっぱい終わったね。さ、ばあばのところにおいで」
珠子を抱いて
「もう一寝入りしてらっしゃいな。夜はデリバリーしましょう。リクエストある?」
「お義母さんの食べたい物で。私、好き嫌い無いんです」
「了解。しっかり寝なさい」
「はい」
鴻が寝室に行くと、
「姫は眠くないですか」
操は珠子に頬ずりしながら聞いた。
珠子は操をじっと見つめて「あーあー」と小さく言った後、瞼を閉じて寝息を立てた。
「お義母さん、これ美味しい。丼なのに衣サクサク、海老プリプリ。これ『うまどん』のですか」
うまどんは最近商店街にできた丼専門店だ。
「茄子天に目がないのよね私。食べたくなって頼んじゃった」
操と鴻はデリバリーの天丼と操が作った根菜多めの味噌汁の夕食をとっていた。
珠子はおっぱいをたっぷり飲んで揺り籠で眠っている。
「お義母さん、さっきの話しなんですけど、こっちに来てもらっていいんですか?」
夕食を終えてお茶を飲みながら鴻が聞いた。操は珠子を抱っこしながら、
「もちろんよ。可愛い姫と一緒にいられるなんて最高よ。もちろん源がいる時はあの子がお守りをするでしょうから私は泣く泣く休ませてもらうわ」
「すみません。私の我がままで…お世話かけます」
「何言ってるの。上下を行き来するだけじゃない。このアパートはほぼ二世帯住宅みたいなものよ。それに私は五人の子どもを育てたのよ。授乳はもちろん無理だけど、それ以外の事なら家事だってやるわよ。どうせ暇だから」
「ありがとうございます」
「ただね、コウちゃん、今は寝不足や疲労で姫の目線が気になってしまうかも知れないけど、赤ちゃんはどんどん育ってあなたの体も楽になってくるだろうから、そうなってきたら親子のスキンシップはとても大切よ。私のお守りが必要無くなったら遠慮なく言ってちょうだいね」
「お義母さん」
「何涙目になってるのよ。姫、あなたはなかなか泣かないのに、あなたのお母さんは泣いてますよ~」
操が珠子に向かって言うと、
「泣いてません」
鴻は鼻をすすりながら言った。
それから一年二年と過ぎていったが、鴻が珠子の目線に慣れる事は無かった。