憧れの人
「珠子ちゃん」
珠子が通う第二幼稚園のばら組の友だち、大沢賢助が話しかけてきた。
今は遊びの時間で、珠子は永井葵と教室の隅でブロックを使って動物を作っていた。そこに賢助がやって来たのだ。
「なあに?」
珠子が少し首を傾げる。
「あのさ、十月に運動会があるじゃない」
「うん。小学校と合同でやるんでしょ」
「そう。おれ、今朝いつもより早く幼稚園に着いちゃって、退屈だったから小学校の方を見ていたら、すごく真剣にリレーの練習をしてるのが見えてさ」
「へえ」
運動が苦手な珠子は、気のない返事をした。
「その練習してる人たちの中で、凄く早い人がいたんだ」
「へえ、そうなんだ」
「で、その凄く早く走ってた人が、孝兄ちゃんだったんだ」
と賢助が言った途端、
「えっ、孝君ってリレーの選手なの?」
葵が食い入るように聞いた。
「うん。タカシはクラス対抗リレーの選手に選ばれたって言ってた」
運動音痴の珠子は、あまり運動会に関心がないので、大好きな孝がリレー選手に選ばれたのは凄く尊敬するし、応援もするが、あまり気にしてなかった。
「孝兄ちゃん、スラっとしていて手足が長いから走ってる姿が格好良かった」
賢助はその時の孝の走りを思い出して、おれもあんなふうに走れたらいいなぁと言った。
「私も孝君が走るところを見たかったな」
葵は、羨ましそうに賢助を見た。
珠子も口には出さなかったが、最近の孝は身長が伸びたせいか、賢助の言う通りスラリとして益々格好良くなったなあと思っていた。
「珠子ちゃん、今日、珠子ちゃんのお家に行ってもいい?」
葵が突然聞いた。
「別に構わないけど。葵ちゃん、もしかしてタカシに会いたいって思ってる?もしそうなら会えるかわからないよ」
珠子の返事に
「それでもいいの」
と葵は言った。
「えっ、孝兄ちゃんに会えるんなら、おれも珠子ちゃんちに行きたい。孝兄ちゃんに早く走るコツを聞きたい」
賢助も前のめりで珠子に話す。
「ウチに来るのは全然いいんだけど、もう一度言うけどタカシに会えるかわからないよ」
と、珠子が釘を刺す。
「いいよ。もし会えたらラッキーって思うから」
賢助と葵が口を揃えた。
珠子は、なんだか面倒くさいなと小さくため息を吐いた。
「姫、お待たせ」
帰りの時間、操が迎えに来た。
「ミサオ、葵ちゃんと賢助君がウチに来たいって」
珠子が、あまり気乗りしない様子で言う。
その後ろから
「珠子ちゃんのおばあちゃん、こんにちは。これからおじゃましてもいいですか?」
葵と賢助が声を揃えた。
「葵ちゃんと賢助君、こんにちは。私はいいけど、お家の方の許可をもらっているの?」
「これからです」
「おれも」
そして、二人の母親たちも迎えに来て、葵と賢助が珠子のところに行くことを彼女たちは了承すると
「神波さん、ご面倒をかけますがお願いします」
「夕方頃、迎えに伺います」
と、操にお辞儀をした。
「それじゃ、お預かりしますね。じゃあ行きましょう」
操は珠子と賢助の手を繋いで、家の方角が同じ葵と母のレイラも手を繋いで幼稚園を後にした。
操の部屋で、葵と賢助はソファーに行儀よく座りそわそわしていた。
「二人とも楽にして」
操がぶどうジュースのグラスを置きながら、クスッと笑う。
「タカシ君を待ってるの?」
操が聞くと、葵と賢助は顔を見合わせてから、うん、と頷いた。
「タカシがこっちに来るか、わからないよって言ったんだけどね」
珠子が何とも言えない顔をする。
「大丈夫よ。彼は姫の顔を見に毎日来るんだから。二人のラブラブぶりは驚くほどよ」
操の話に葵は切ない声を出した。
「そうなんだ」
そして、操が言った通り
「タマコ、いるか」
と元気な声がして孝が入ってきた。
葵たちが前に会った時より背が高くなって、すっかりお兄さんになった彼に
「孝君、こんにちは」
「孝兄ちゃん、こんにちは」
二人が緊張気味に挨拶をした。
「おう、こんにちは」
客人がいたので孝も驚いた顔をする。
そこに珠子が駆け寄り
「今朝ね、賢助君がタカシが走ってるところを見たんだって。凄く格好良かったって」
孝を見つめると、彼は恥ずかしそうに笑った。
珠子と孝が並んで、葵と賢助に体を向けると
「あっ、お揃いだ!」
葵が、思わず大きな声で言った。
二人は誕生日にプレゼントされたTシャツを着ていたのだ。孝はブルーグリーン、珠子はピンキッシュオレンジの同じ柄で、それぞれの名前がプリントされたTシャツだ。
「孝兄ちゃん、なんかカッコイイ」
賢助に褒められて、孝は照れ笑いし、珠子は
「ペアルックなの」
と嬉しそうに言う。
葵はいいなぁ羨ましいなぁと思った。
「孝兄ちゃん、どうやったらあんなに早く走れるの?教えてくださいっ」
孝と珠子が向かい側のソファーに座ると、早速賢助が聞いた。
「うーん、腕をしっかり動かすことかな。実のところ、おれはあまり意識してないけどね」
「気にしてないのに、あんなに早く走れるの?スゲーっ」
賢助が尊敬の眼差しで孝を見る。
そして、葵も勇気を出して孝に聞いた。
「孝君は珠子ちゃんが好きなんですか。私のことも好きになってもらえますか」
「えっ?」
孝は思いっきり目を見開いた。