本当は優しい人
「神波珠子さん」
朝、いつものように小学校に行く孝を見送った珠子は、後ろから声をかけられた。
振り向くと、あまり顔を会わすことのない105号室の谷村明美が立っていた。彼女は、最近は静かにしているが、少し前まで細かい事にやたらと口を出し、眉間に皺を寄せながら重箱の隅を突く老人と周りから陰口をたたかれていた人物だ。
だが、今朝の明美は穏やかに見える。
「谷村さん、おはようございます」
慌てて挨拶をした珠子は緊張気味な声になってしまった。
「おはよう、珠子さん。ちょっとウチにいらっしゃい」
突然、明美に誘われた珠子は、断らなくちゃともじもじする。
「どうしたの。遠慮しないで、いらっしゃい」
有無を言わせない雰囲気に珠子は口ごもる。
「あの…」
「ん?」
「あの……これから幼稚園なんです。すみません」
と、言いながら珠子は玄関の方を向いた。
「じゃあ、幼稚園から帰ってきたら、ウチにいらっしゃい」
そう言って、明美は自分の部屋に戻った。珠子も操の部屋へ入った。
「姫、随分ゆっくりしてたわね。急いで支度をしないと」
扉が開いた音を聞いて操が早口で言った。
しかし、珠子がこちらに来る気配がないので、様子を見に玄関に行った。
そこには困惑した表情の珠子が立っている。
「どうしたの、姫」
「うん」
「とりあえず、あがって」
操は珠子の肩を抱いてキッチンに連れて言った。
「姫、時間がないからバナナだけでも食べて」
珠子がバナナを食べている間に制服を着させて、靴下をはかせ、麦茶を飲ませ、洗面所に連れて行き、歯を磨かせ、帽子と通園バッグを持たせ部屋を出た。
幼稚園に向かう道で、珠子の様子がいつもと変わらないぐらいに落ち着いてきたので、操は改めて聞いた。
「姫、タカシ君を見送った時に何があったの?」
「タカシにバイバイして部屋に戻ろうとしたら、声をかけられたの。谷村さんから」
「えっ、105号室の谷村さん?」
「うん」
「で、何て言ったてたの?」
「うん。ウチにいらっしゃいって」
「105号室に来てってこと?」
「そう。私、これから幼稚園なんですって言ったの」
「そうよね」
「そしたら、幼稚園から帰ってきたらウチにいらっしゃいって。何なのかな?」
「突然、何の用かしらね」
「私、谷村さんを怒らせることしたかなぁ?」
珠子はこのところの自分の行動を思い出してみた。もちろん心当たりはない。幼稚園に入る以前にのど飴をあげたことがあったが、それ以降顔を合わせていない。
「谷村さん、怒ってたの?」
「そうじゃなかったな。前に会った時より穏やかに見えた。でも機嫌が良いって感じでもなかった」
「確かに、あの人の笑顔はあまり見たことはないわね」
「あまりって、ミサオは谷村さんの笑顔を見たことがあるの?」
「ええ。谷村さんは入居希望の面談で、色々話をして…その時はとても穏やかで笑顔も見せてくれた。面談はね、その人の要望を聞いたり人柄を見たりするんだけど、それ以外に私がその人の内面を感じるためにするの」
「うん、そうだよね。入居者さんとの信頼関係を築くためにミサオは感じ取るんだよね」
珠子が真面目な顔で言うと、操が優しい表情をして頷いた。
「『ハイツ一ツ谷』の入居者さんたちは、みんないい人よ」
「ミサオ、幼稚園から帰ったら、私一人で谷村さんを訪ねていいかな」
「姫がそうしたいのなら、いってらっしゃい。谷村さんは気難しいけど悪い人ではないわ」
操は珠子に笑顔で言った。
幼稚園から帰って、制服を脱ぐと
「ミサオ、谷村さんのところに行ってくるね」
珠子は玄関で操に言った。
「うん。いってらっしゃい」
操も玄関に行き珠子を送り出した。
105号室の前で、珠子は大きく深呼吸をする。そして、インターホンを押した。
「こんにちは。神波珠子です」
「開いてるから入って」
谷村明美の応答を聞いて、珠子は玄関の扉を開けた。
「こんにちは。おじゃまします」
目の前に立っていた明美に改めて挨拶をすると、
「珠子さん、これ」
そう言って、可愛らしいイラストが描かれた紙袋を渡された。
「あ、ありがとうございます」
「昨日、用があって親戚の家に行ったら、これをもらったんだけど私の好みじゃなかったので、あなたにあげるわ。若い人の口には合いそうだから。良かったら食べて」
「は、はい。いただきます」
「今朝、あなたが見送っていたのは、大家さんの隣の子ね。仲良しなの?」
「はい。仲良しです」
「そう。その子と分けて食べなさい」
「はい。そうします」
珠子が緊張気味に言う様子に、明美は微かに笑顔を見せると
「珠子さん、私、怖い?」
と聞いた。
「そんなことないです」
珠子は慌てて答え、必死に笑みを作った。そんな彼女に明美が言った。
「私ね、あなたぐらいの孫がいるの。娘とちょっとした仲違いがあって何年も会ってなかったんだけどね。最近、お互いの誤解が解けて少しずつ会うようになったの。孫って可愛いのよね」
「私はミサオ、いや、祖母が大好きです。谷村さんのお孫さんもおんなじだと思います」
珠子は素直な気持ちで言った。
「そうだったら嬉しいわ」
明美はとても穏やかな表情になった。
珠子もつられるように緊張がほぐれた顔になり
「谷村さん、これ、ごちそうになります。ありがとうございます。おじゃましました」
と、にっこり笑って明美の部屋を後にした。
やっぱり。珠子は思った。操の言った通り悪い人ではなかった。怖い人でもなかった。今まできつい態度をとっていたのは寂しかったからで、本当は普通に優しい人だ。その証拠に手渡してくれたこの紙袋のお菓子は、もらいものではなく明美がわざわざ選んで買ったものなのだと珠子は感じた。
操の部屋に戻ると明るい声で彼女は言った。
「ミサオ、ただいま。私、温かい気持ちになったよ」