柏のこと
「お義母さん、十六日はどんなことをやりましょうか」
珠子と孝がそれぞれ幼稚園と小学校で過ごしている頃、月美が操のところに相談に来た。
九月十六日は、珠子と孝の誕生日だ。
今まで孝は自分の誕生日を祝いたがらなかったが、去年、やっと祝ってもらうことに抵抗を感じなくなったようだ。
彼にとって誕生日は、母親の月美に対して申し訳なく思う日らしい。孝は、月美が強姦された末に生まれた子どもだった。もちろん、その事を知らされてはいなかったが、それでも祝福された誕生ではなかった事を幼い頃から感じていたのだろう。だが神波柏と出会って、彼が孝と月美に家族になって欲しいと言ってくれた。そして、頼もしい祖母と愛おしい少女の隣で暮らす事になった孝は、毎日が充実して今では生まれたことに負い目を感じる事なく過ごしている。
偶然にも、孝と珠子は誕生日が同じなので去年のように一緒にお祝いしたいと、月美が操に相談したのだ。
「もちろんよ。今年は月美さんのところでお祝いしましょう。キッチンの調理器具が充実しているカシワの部屋で、タカシ君の好物をたくさん用意して、わいわいやりましょう」
操の提案に月美は笑顔で頷いた。
二人はキッチンの食卓に向かい合って座り、冷たいお茶と一口煎餅でゆっくりくつろいでいる。
「誕生日会や夏の旅行もそうだけど、タカシ君が中学生になったら家族との行事につき合ってくれなくなるかも知れないから、できるうちに、いろいろな事をやりましょうね」
と、操は過去に経験した自分の子供たちの成長過程を思い出しながら話した。
「お義母さん、柏君も中学生になると家族とは別行動を取るようになったんですか?」
月美は、ふと、夫の思春期を想像した。
「あの子は、ずっと穏やかで反抗期らしい態度は見せなかったけど、それでも家族旅行は行かなくなったわね」
そう言いながら、操は水出し緑茶を一口飲んだ。
「柏君の少年時代は今とあまり変わらなかったんですか」
「そうね。三人の息子たちは少なくとも私の見てる範囲では喧嘩も殆ど無かったし、その中でもカシワが一番私に優しかったわね。でも、それだけじゃ無くて、あの子は一本筋が通っているって言うか思慮深いって言うのか、とにかく親の私が言うのも何だけど、月美さんはいい男を捕まえたわよ。って言うか、月美さんがカシワに捕まっちゃったのね」
と、操は笑った。
月美は、カシワの子ども時代や少年時代を知りたくなった。自分の幼い頃の思い出は、いや、年頃の時も成人になってからも記憶に残したく無い事ばかりだった。実際、彼女は神波の家族と出会うまで、どうやって生きてきたのか断片的な記憶しか無い。そんな中で、唯一輝いていたと思えるのは、孝の出産だった。その頃も全く恵まれた環境では無かったが、運良くサポートしてくれる団体に保護されて無事に出産することができた。生まれたばかりの孝が、月美の人さし指指を握った瞬間、宝物ができたと思った。
「月美さん」
誰かが呼んでいる。
「月美さん?」
操の声に、はっと我に返った。ずいぶんと俯いてしまっていたようだ。
「月美さん、どうしたの?大丈夫?」
操が月美の顔を覗き込む。
「すみません。大丈夫です。お義母さんたちに出会う前の事を思い出そうと…」
「あなたの子どもの頃はどんな女の子だったの?」
「それが、殆ど記憶が無くて。多分、辛い事が多すぎてどこかに閉じ込めちゃったみたいです」
「そう。まあ、これから私たちと思い出をたくさん作ればいいわ」
「はい」
月美は元気よく返事をして、そして、操に聞いた。
「ところで、柏君の少年時代はどんな子どもだったんですか?」
「あの子はね、絵を描くのが好きだったわね。片面刷りのチラシの裏に、細々したものを描いていた」
「何を描いてたんですかね」
「多分、何かの基地とか要塞みたいなものね。その頃から建物の図面や構造に興味があったのかも知れないわね」
「なるほど」
「こんな事もあったわ。夏休みに、茜と藍が生まれたばかりの子猫を拾ってきたんだけど、どう世話をしていいのかわからなくて育児放棄したのよ」
「まあ。今の茜さんたちからは想像つきませんね」
「あの子たちがまだ小学一年生の頃だから知識も無くてね。で、カシワがその猫の世話をしたの。温めた牛乳を少し薄めて浸したガーゼを子猫に吸わせてた。それから濡れた脱脂綿で肛門を刺激してウンチを出させて。それを一日何度もやっていたわ。夜中も明け方も眠い目を擦りながら頑張ってた。夏休みが終わる頃、猫好きの親戚がその子を引き取ってくれたんだけど」
「その猫は、柏君のおかげで生きられたんですね」
「ええ、ただね、その半年後に猫に会いにカシワを連れて親戚の家に行ったわけ。そうしたらね」
「そうしたら?」
「その猫が丸々太って玄関に出て来て、カシワは感動の再会にちょっとウルッとしてたんだけど、猫を抱っこしようと手を出したらね」
「ええ」
「シャーァって威嚇されて、両手を引っ掻かれて、その後、暫く立ち直れなかったのよ」
その時の落ち込んだ柏の顔を思い出して操は笑った。
「柏君は優しくて面倒見が良い子どもだったんですね。今も変わらないんだ」
「そうね。顔立ちはどっちかって言うとキリッとしてるのに結構柔なのよ」
「女の子にモテたんじゃないですか」
「バレンタインのチョコは毎年たくさんもらってたわね。でも、はっきりとした理想があるみたいで彼のお眼鏡にかなう女の子はなかなかいなかったみたい」
操の話を聞いて、柏が自分に猛アタックしてくれた事がとても嬉しかった。